代理母問題に思う。運命とは・・・

 「いやだ、いやだ、かってくれなきゃいやだ・・・」
 だが、いろいろな事情で、子どもの思うようにはいかない。
 そして、お母さんが、宥めたり、賺したりする。
 「何、わがまま言ってるの!!!」と叱りつけたりもする。
 こんな光景は、おもちゃ屋などでよく目にしていた光景だった。
 先日見たニュースは、そんな光景を見るようだったが、宥めたり賺したり、叱り飛ばしたりする人はいなかった。
 「子供が産めない娘に代わって、50代の母親が娘の受精卵を使って代理出産
 つまり、祖母が孫を生む形の「代理出産」を試みた30代の女性の記者会見の模様である。
 結局、今回。妊娠には至らなかったという。
 女性は、「このような運命を持って生まれた人間も、好きな人の子供をこの手に抱きたいという思いがあるのだということを知ってほしい」と言い、50代の母親は、「娘が子どもを生めない体になったのは自分の責任だと感じている」と言う。
 そして、診療を手掛けた長野県の「諏訪マタニティークリニック」の根津八紘院長は、「こういった願いを持った人たちを助けてあげられない無力さを感じます」と言っていた。
 好きな人の子どもを生みたいと言う気持がわからないわけではないが、子どもはおもちゃではない。
 「はい、できました。どうぞ・・・」という代物ではない。
 そして、そうやって生まれたとしても、生まれた限りにおいては、成長していけば、一人の人格を持った人間になる。となれば、親が思ったようにならないこともありうる。ほとんどが、そうだと思う。自分のことを振り返ってみても・・・。
 そうなったときに、「好きな人の子だから・・・」と受け入れてもらえればいいが、代理出産のせいにしてしまうことにならないだろうか?
 ならなければいいが、そうなってしまったら悲惨である。
 運命は受け入れなければいけないものもある。受け入れて始まる大切なことが・・・。
 特に、出産は人間の叡智の外である。だから、冒してはならない。どんなに科学が進んでも、冒してはならないのである。冒せば、人間は、人間であることを放棄することになる。
 そして、一人の人間が望んで叶えてあげるといったことで済むことではないのである。
 unizouは、運命には神が受け入れることを試練として与えている場合と、それに挑むことを試練として与えている場合があるのだと常々思っている。
 この30代の女性は、子を生めないという運命を受け入れる試練を与えられているのだと思う。
 その試練とは、子を生めないという状況で、夫とどうやってお互いを思いやって生きていけるか、自分の子ではない子どもたちに愛情を注げるかといったことだと思う。
 そういった行いができたときに、きっと、もっと大きな神の愛に包まれて安寧を得ていくのだと思う。
 高校時代、英語の副読本で読んだトルストイ民話集の中の「人は何で生きるか」という短編があって、その後、岩波文庫(中村白葉訳)から出版されたものを購入し、今でも書棚に置いている。
 その話の中に、一週間の間に両親をなくした双子の赤子を育てた近所の女の人が出てくる。
 「二人の孤児が生きてゆけたのは、みんなが彼らのことを考えてやったからではなく、他人の女の心に愛があって、彼らを憐れみいつくしんでくれたからです。こうしてすべての人は、彼らが自分で自分のことを考えるからではなく、人々の心に愛があることによって、生きていっているのです」
トルストイ作「人は何で生きるか」のあらすじhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/lds/nandeikiru.htm
 親はなくても、子は育つ。
 逆に、子はなくても、夫婦は夫婦。
 記者会見した女性も、もっと広い心で生きることで、安寧を得られるのではないかと思うのだが・・・。