今を生きる

 一流大学を出てきたとか、資格があるとかいったような人が、実際に仕事ができるかというと、決してそうでない人をたくさん見てきた。
 いろいろな知識を持っていたところで、それを活かすことができないハートの持ち主といった感じだったり、あるいは、それで慢心し、成長を止めてしまったりというような人かもしれない。
 今、問題になっている歴代の社保庁の長官のような、最初のテストの点が良いだけで、その後の一生を渡り歩けるキャリア官僚などにも、きっとそういう人は多いかもしれない。
 きっとノンキャリアの人にとっても厄介な存在だろうが、今の状況を見ると国民にとってはたいそう迷惑な存在に違いない。
 いつも座右の書にしている蒼竜寺公方俊良住職の「般若心経 人生を強く生きる101のヒント」【知的生き方文庫三笠書房刊】に、「2 満ち足りて生きる 過去はもうなく明日はまだない、この『今』を生きよ」という項がある。
 その項では、次のようなことが書かれている。
 まず、中国禅宗第4祖道信が、中国禅宗5祖になる弘忍の少年時代に、あるとき、彼と路上で出会ったときの話を紹介している。

「名は何というのか」「名はありますが、人並みの名ではありません」
「ほう。では、どのような名か言ってみよ」「仏という名です」
「さて、自分の名を忘れたな」「名はもともと空ですから」

 そして、私たちが、自己に囚われ、名に囚われ、そして、自己が歩んできた過去に囚われて生きているが、自分の名前や過去へ思いや囚われは、自分が向上するためのブレーキか重荷にこそなれ、決してプラスにならないと説いている。自己も、名も、過去も、何ら実態はないのに“ある”と思い込んでいることを、弘忍は“もともと空ですから”と指摘したと・・・。
 さらに、公方俊良住職は阿含経の筏のたとえを、次のように紹介している。

 ある男が、大河にさしかかり、船も橋もなく向こう岸に渡ることができないので、思案し、苦心し、木の枝などを集めて組み合わせ、筏を作って容易に向こう岸に渡った。
 それを見ていた愚かな男は、筏が便利で重宝なことを知り、「こんな便利なものは常にそばに携えておく必要がある」と思い、それから陸地を歩くにも筏を担いで行った。

 こんな愚かな男を見て失笑している私たちも、いったん自分にとって役に立ったり大切だったりしたものは、決して離すまいとし、そのものの本来の機能すら忘れ、余計な背負い込みをする。これが般若の知恵を阻害する執着心だと・・・。
 「子どもの頃はよく勉強ができた」「一流大学出身だ」「昔は事業で成功して金持だった」などと 過去に思いを馳せ、懐かしみ、自慢することも、過去への執着心だと・・・。
 充実した人生を生きる人は、過去にすがりつくことなく、いつも空っぽになることができる人。
 「空っぽになることによって、固定観念や既成観念を打破し、常に新鮮な学びや出会いを得、新たなる創意や工夫、改善が生め、ここに進歩と向上が生まれる。
 過去に囚われない生を生きるには、今朝の目覚めを生と思い、夜の眠りを死と思い、一生積み重ねていく、毎日が決算の人生に、生の充実がある。」と・・・。

 すべてを知ることはできないのだ。また。すべてを知ったかのごとく振る舞うことは傲慢なことであり、その人の成長を止めてしまうことになるのだ。
 毎日、自分できることを精一杯行い、そして、後悔しないこと。また、日が昇れば、新しい人生が始まるのだから・・・。
 また、生きていく上で、人生の途中には終着点はない。死ぬまで、そういう気持ちで生き続けることが充実した人生を送る上で大事なのだと思う。そして、そうすることで、人の役にも立つのだと・・・。