小泉県議の自殺

 6月5日に県立病院を「ここは刑務所か!」とブログで発言したことでブログが炎上し、記者会見を開き謝罪した岩手県議会の小泉光男県議(56)が同県一戸町で死亡しているのがみつかったというニュースが流れた。自殺の可能性が高いという。
 今回の騒動の発端となった県議自身の発言がよくないということはわかるが、そのことで自らの命を絶ったとしたら、残念でならない。
 今までにも、今回のケースのように世間から批判を浴びて、命を絶った人がいる。
 どうしても忘れられないのが、2006年4月にライブドア粉飾決算事件に絡む「偽メール問題」で衆院議員を辞職し、2009年1月に自殺した元民主党永田寿康(ひさやす)氏のことである。
 メール事件のとき、「もうそのくらいでいいだろう」と思うくらいだったが、際限なくマスコミが寄って集って永田氏を叩いていた。
 マスコミは世間の代表のような顔をして、批判の矛先に容赦ない攻撃を仕掛けた。
 本当は、多くの普通の感覚の人は、悪いことは悪いこととして謝罪し、議員をやめるなどその立場で取るべき責任を取れば、それでいいと思っていたはずである。
 しかし、マスコミの容赦ない報道や一部の傍若無人な人の攻撃で精神に異常をきたした彼は、数年後自らの命を絶った。

 命はどんな人でも尊い。どんな立場の人の、たとえどんな失態でも、その立場に応じた責任をとる必要があるが、命までということはない。

 どうして人は、自分のことを棚に上げて、こうまで人を責めることができるのだろう。
 自分自身の生き方も含めて反省したい。

 こういう時にいつも頭に浮かぶのが、以前にも紹介した曽野綾子さんの著書「心に迫るパウロの言葉」の一節である。
 

 聖書を読んでいれば「××なら間違いない」という言い方をしなくなる。そして私は幸運にも、少し聖書を読んでいたのである。
 「ヨハネによる福音書8・7」には、あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」という言葉が出てくる。姦淫した女は当時、石打ちの刑に処せられるはずであったが、イエスズはそれに対してこう答えられたのである。すると彼女をひきたてて来た律法学者やパリサイ派の人たちは一人また一人と出て行き、最後に女とイエスズだけが、人の気配もない早朝の神殿に取り残された。
 「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを処罰すべきとみなさなかったのか』。彼女は、『主よ、誰も』と答えた。イエスズは仰せになった。『わたしもあなたを処罰すべきとはみなさない。行きなさい。そして、これからは、もう罪を犯してはいけない』」
ヨハネ8・10〜11)
 (中略)
 しかし初めから正しい者も、完全に善を行う者も、一人もいはしないのだ、と言われると時に、むしろ私は心おきなく、自分の弱さや、他人の弱点を見つめることができるようになる。そして、自分はもう許されないであろう、とか、あの人は許しがたい人間だとか思わなくて済むようになる。なぜなら、悪い点のない人間はいない、と、聖書は、そもそもの初めからかくも明確に断言し続けているからである。

 哀しみの中にいる小泉議員の身近な人を思うと辛い。
 辛くても生きていて欲しかったと、きっと思っていると思う。
 特にお母様の傷みは、きっと深いものだと思う。

 今回のような件で、誰もが、二度と同じような責任の取り方をせず、取るべき責任を潔く取り、人として確かに生きて行くことが大事だと考えてもらいたい。