愛あるところに神あり

 9年待ちのパンがあるそうだ。
 元競輪選手だった多比良泉巳さんが、作っているパン。
 彼は、レース中に接触事故に遭い、その影響で脳と足の障害を負った。寝たきりの生活を余議なくされるかもしれないほどの重症だったが、奥様聡子さんの献身的な看病で障害は残ったものの、何とか自分で生活を送れるまでになった。
 脳の障害からの回復のためのリハビリに行ったのが、パン作りだったそうだ。
 彼のブログには、こうある。

 手作りの食べ物は、心が満たされると僕は思います。
 食べた人にしあわせになってもらいたいです。
 これからもふたりで力を合わせてコツコツと手づくりしたいと思います。
http://gateaudange.com/

 未だに重い後遺症に悩まされているため、1日に5個程度しか作れないパンは、予約から9年待ちだそうだ。

 この話を知って、トルストイの「愛あるところに神あり」を思い出した。
 あらすじは、こんな感じである。

 靴屋のマルツィンは、妻や子どもたちに次々と先立たれ、その上、最後に残った最愛の息子までも死んでしまう。
 そのため、信仰深かった彼は、神に死を願い、神を責める。
 あるとき、マルツィンのもとに老人が訪ねてくる。
 彼は、「わしはもう生きている気もありませんよ。おじいさん。ただ早く死にたいと思ってね、そればかり神様に願っていますよ。わしはもう何の望みもない人間になってしまいましたよ」と自分の悲しみをその老人に訴えるが、
 それを聞いた老人は、
 「おまえの言うことはまちがっているよ、マルツィン、わしらには、神さまの仕事をかれこれ言う資格はないんじゃ。世の中のことは、わしらの知恵にはなくて、神さまのお心にあることだからね。おまえの息子が死んだのも、おまえが生きているのも、みんな神さまの思召しじゃ。つまりそのほうがええというわけなんじゃ。それをおまえが落胆しているのは、おまえが自分だけの喜びのために生きようとしているからじゃよ」と話した。
 それを聞いたマルツィンは「じゃ人間は、なんのために生きればいいんですかね」と尋ねた。
 すると老人は、
 「神さまのためにさ、マルツィン。おまえに命を下されたのは神さまじゃから、神さまのために生きなければならんのさ。神さまのために生きるようになりさえすれば、何も悲しむことなんかなくなって、どんなことでも、なんでもなく思われるようになるもんじゃ」
 そして神さまのために生きるにはどうしたらいいかは、福音に書いてあると言う。
 そして、ある日のこと、聖書を読みながらついうたた寝してしまったマルツィンは、「マルツィン、明日往来を見ておれよ、わしが行くから」というキリストの声を聞き、翌日は一日中窓際にすわりキリストの来訪を待つ。
 しかし、窓から見ていてもキリストらしき人は見当たらない。
 その代わり貧しい人々に気付くマルツィン・・・
 マルツィンは窓から見たその貧しい人々を次々と自分の家に迎える。
 そして夜・・・やはりあの声は夢だったと思うマルツィンは、
 招き入れた貧しい人々こそイエス・キリストであったという声を聞く。
 そのときにマルツィンが読んでいた福音はマタイ25章。

 わが飢えし時われに食を与え、
 渇きし時われに飲ませ、
 旅せし時われを宿らせたればなり・・・

 汝ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者のひとりになしたるは、
 すなわちわれになしたるなり

 自分の家に招き入れた人たちを、マルツィンは、愛で接します。
 愛で接せられた人は、みな穏やかな人に変わります。

 幸福のパンを作っている多比良さんは、きっとマルツィンのような人なのではないかと思うのです。
 食べる人の幸せを願って愛を持ってパンを作る。食べる人は、それを受け止めて食べる。その喜びが、多比良さんに巡っていく。
 受け入れ難い悲しみや絶望もあるけれど、それでも現実として受け止めて乗り越えて行く。本当の強さは、そういうことなのだと思う。