人はどれだけの土地がいるか・・・そして、TPPを考える

 知り合いのいとこにIさんという人がいる。
 彼は、現在の日本年金機構の前身である社会保険庁に勤務していたが、健康上の問題と社会保険庁内部のごたごたなどが重なった時期の5〜6年前に退職した。
 彼の実家は栃木県中部の都市で都市近郊農業を営んでいたが、高齢の父親は、ほとんどの田畑の耕作を、近隣の知り合いに頼んでいたそうだ。
 退職したIさんは、かねてから農業をやりたいと思っていたので、父親が知り合いに任せていた農地を自分で耕作し、今では後継者のいない近隣の農家の農地まで耕作するようになっているそうだ。
 この話を我が家ですると、専門的な知識のない家族は、「やりたい人がやればいいだよね。やれないのに土地を手放そうとしないから、いろいろな矛盾が生じるだよね」と、至極当たり前のことを、平然と言ってくる。
 確かにそうなのだ。農業に限らず、後継者がいないのに土地を惜しんだり、事業を惜しんだりするから、無駄や無理が生じるのだ。
 般若心経でいう、
 かたよらない心
 こだわらない心
 とらわれない心
がそれぞれの人にないから、世の中に支障が生まれ、世の中全体の停滞を招くことになるのだ。
 こういった話を聞くと、トルストイ民話集の「人はどれだけの土地がいるか」という本のことを思い出す。

 善良な農夫であるバホームは、つい「地面さえあれば悪魔だってこわくない」と豪語したばかりに悪魔に目をつけられる。
 悪魔は、『よしきた』とばかり、『ひとつおまえと勝負してやろう。おれがおまえに地面をどっさりやろう。地面でおまえをとりこにしてやろう』と考える。
 そして、バホームのところには何故かうまい話がどんどん来て、とんとん拍子で土地を手に入れていくが、土地が増えれば増えるほど、もっといい土地が欲しくなる。
 ある日彼は旅人から噂を聞き、バシキール人の村を訪ねる。そこでは「わずか千ルーブリ」の代金を払えば「一日歩いた分が全部自分の土地になる。ただし、日没までに出発点まで帰ってこなければならない」と言われ、バホームは日の出から張り切って歩き出す。
 太陽がじりじり照りつける中、『一時間の辛抱が一生のとくになるんだ』と、少しでも広い土地をとろうと食事もろくにとらずに歩き続ける。
 彼は少々欲張って遠くまで来てしまったため、急いで出発点に帰ろうとするが、彼は焦りだし、欲張ったことに後悔をはじめる。太陽は地平線に沈みかかっていく。バホームはなりふり構わず靴も脱ぎ捨てて走り出す。息がきれ、心臓は破裂しそうになる。そして、倒れながら土地をしっかりとつかむ。
 しかし、パホームの口からは、たらたらと血が流れ、死んで倒れていたのだ。
 下男は、足から頭までが入るように、きっかり三アルシンだけ彼の墓穴を掘った。

  管理できる程度の範囲でしか、個人も、社会そのものも、土地を持ってはいけないのだ。
 こういった話や仏教の話をしても、わかってくれない人がたくさんいる。
 だから、法律で制約せざるを得ない。
 土地が必要な人にしっかり利用され、その上で、多くの人がその実を享受できるようになるような法律が必要なのだ。
 ちなみに、IさんはTPPに賛成だそうだ。しっかりやれば、自分の作った農作物は売れると自信があるのだろう。
 そう考えると、農協は一体誰を守ろうとしているのか。
 農業者?、農協そのもの?
 今日は余談の方が結論となってしまったが、「TPPは、農協の存在を考えずに、真に農業者のことを考えることが、唯一の正しい解決方法を導きだせる」と考えてしまった次第である。