信教の自由と公平な世の中

 神様や仏様を信じていないわけではないが、小さなところから大きなところまで「宗教法人」となると、胡散臭い感じがして敬遠している。
 最近、町で多く見かけるようになった宗教法人の施設の多さにも違和感を感じることが多い。
 もうずいぶん前になるが、オーム真理教が流行になっていた頃、高円寺駅だったか阿佐ヶ谷駅だったか忘れたが、「しょうこう、しょうこう、あさはら・・・」と歌ったり踊ったりしているのを見て訝しさを感じた。その後も、教祖がTV朝日で放送していた「朝まで生テレビ」に出演していたのを見て、「これは危ない!!!」と直感的に感じたものだった。
 大体、ベンツに乗ったり、高価な食事をしたりする教祖では、そこらの世俗の人間と何ら変わりない。
 煩悩を取り払うには、「無」であることが一番であり、モノやヒト、生きることなどに執着すればするほど、煩悩は深まり、生きる苦しみを味わうことになる。
 もちろん、人を集めて組織(宗教法人)を作るなども、unizouに言わせれば、「人」に執着している証拠である。
 「来るものは拒まず、去る者は負わず」というくらいでないと、本当は人を救うことはできないと思っている。
 unizouも、自由で民主主義的な国であれば、どこの国でも保証されているように憲法で保証された個人としての「信教の自由」を遵守するべきだと思っているのだが、団体としては「信教の自由」を守る必要はないのでははないかと、最近思うようになっている。
 個人の「信教の自由」は守られるべきなのだと思うが、団体になると、会社や政府と同様に、情報開示の義務があるのではないかと思うのである。
 会社でも、宗教法人でも、その他の団体でも、団体になると個人は責任を負わず、上に立った一部の人たちが、自由勝手に人や財産を使い始める。
 それを、内部でセーブできるならいいが、大抵できないことは歴史的に見ても明らかである。
 宗教は、人を苦しみから救うものであるが、金銭や多くの人が関わると、たちまち違うモノに変わってしまう。そして、たくさんの人が関わるようになると余計である。
 元々、今の世の中、これだけ便利になると、世俗的なことにとらわれない本物の宗教者が出現することは難しいのではないか。
宗教法人 - Wikipedia

 宗教法人は、宗教法人法により、国などへ毎年活動実態等を報告することが義務付けられているが、ここ数年間、報告がない宗教法人が倍増している(2004年以降)。宗教法人が税制面で優遇されていることや、「信教の自由」を侵害する等の理由で認証取り消しができないことなどを悪用する形で、ブローカー等が法人格を売買し、脱税に悪用するなどの事例が後を絶たない状況である。中には、インターネット上で堂々と売買されるケースもある[1]。「不活動宗教法人」の解散を進めるよう都道府県に指導しているが、都道府県をはじめ各自治体も解散には及び腰の状況という。

 宗教法人の場合で言えば、監督官庁である都道府県のみでなく、その他の官庁も広く関わるべきなのだと思うが、実際はどうなっているのだろう。
 企業だけに情報開示やコンプライアンスの遵守を求めるのでなく、宗教法人にも、情報開示やコンプライアンスの遵守を求め、その公正な運営を管理していく必要なのだと思っている。
 もちろん、unizouは、宗教法人だけでなく、ありとあらゆる団体が、情報開示やコンプライアンスの遵守を迫られていると思っているのだが。