体罰

 大阪市立桜宮高校、女子柔道と、暴力による指導が、連日マスコミを賑わしている。
 体罰を受けたという記憶がないunizouは、報道で見聞きして、「そこまでしているのか」というのが、率直な感想である。


 unizouも決して優等生でなかったので、悪さをして叱られることがあった。
 その悪さとは、遊んでいる最中に公共のものを毀損してしまったとか、誰かを傷つけるようなことをしたとか、約束を破るようなことをしたとか、といったことだった。
 勉強ができないことやスポーツがうまくできないで、叱られるようなことはなかった。
 小学生高学年だったある時、農協の施設の周りで遊んでいたunizouと仲間たち。
 その施設は、瓦葺なのだが、屋根の上にも乗って遊んだので、瓦をかなり落としてしまっていたらしい。
 遊んでいた時は、誰に見咎められることもなかったのだが、学校に通報があった。


 その時の担任のN先生は、本当に厳しい先生だったが、尊敬をされていた。


 N先生の前に正座をさせられ、
 「何でそんなことをしたのか?」
 「みんなに迷惑をかけることがわからないのか?」
 「クラスのみんなのいろいろな努力が無駄になるのがわからないのか?」
 などと叱られ、そして、最後に、げんこつを落とされた。
 unizouは、叱られている自分の浅はかさに我に返り、反省した。
 

 げんこつが「体罰」ではないかと言われ人がいるかもしれないが、感情にまかせて殴るというようなものでは決してなく、げんこつを落とすN先生の加減や苦しい心情がわかるようなものだった。
 自分のやったことの重大さに気付く、良い加減のげんこつだった。
 N先生は、叱ったあとは、それを引っ張ることなく、普通に接してくれた。


 今、報道で見聞きする体罰や指導の中での暴力に、真の愛情は感じられない。
 自分の子どもなど愛する人に、もし、そういったことをされたらどう感じるのか、良く考えるべきだと思う。


 また、暴力などのハラスメントは、学校などの教育現場やスポーツなどの現場だけでなく、企業にもあるという。
 もし、そうだとしたら、そういった企業が、永続的な繁栄をすることができるわけがない。
 それぞれの従業員が自立して、知恵を出し合いながら、顧客の満足、取引先の満足、従業員の満足を得られるようにしてこそ、永続的な会社経営ができるのだと思う。


 暴力については、亡くなった伊丹十三監督が製作した「ミンボーの女」のパンフレットの中で次のように語っている。

 人は誰でもやくざを恐れる。やくざの前では、目を伏せて、かかわりあいにならぬようにして生きている。やくざの前では人々は誇りを踏みにじられ、屈辱に耐えている。私がやくざを許せないのはそこなのです。やくざが人々を恐怖で支配し、それによって意思決定の自由を奪い、人々に屈辱の人生を強いることなのです。


 暴力による支配は、真の成長も、真の幸福を生まない。というのが、unizouの持論である。