罪と罰
法律的に罰せられることはなかったものの、unizouも嘘をついたり、人の信頼を裏切ったりして、宗教的に言えば、罰せられるようなことをしてきた。
きっと、死んでから天国に行くことなんて、到底ないだろうと自分なりに観念している。
1/30のブログ「銀座資産家夫婦失踪事件と金融機関」に、通りすがりさんからコメントをいただいた。
あうゆう人間たちが、恨みを買うのは当たり前で、あげくに派手な生活を見せびらかせるなんて、火に油を注ぐということがわからない馬鹿だ。法律的にどうかは別として、自業自得と思う。
しかし、自分も含めて多くの人は、これまでの人生を省みて、「自業自得」だと思うようなことを少なからずしてきていると思う。
unizouは、あるきっかけで「罰を決めるのは、本人や周りの人間ではない。人の生死を決めたり、論じたりするのも、本人や周りの人間ではない」という気持になった。
そのきっかけは、曽野綾子さんの著書「心に迫るパウロの手紙」を読んだからだった。
「ヨハネによる福音書8・7」には、「あなたがたのうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」という言葉が出てくる。姦淫した女は当時、石打ちの刑に処せられる筈であったが、イエスズはそれに対してこう答えられたのである。すると彼女を引き立てて来た律法学者やパリサイ派の人たちは一人また一人と出て行き、最後に女とイエスズだけが、人の気配もない早朝の神殿に取り残された。
「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを処罰すべきとみなさなかったのか』。彼女は、『主よ、だれも』と答えた。イエスズは仰せになった。『わたしもあなたを処罰すべきとみなさない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはいけない』」(ヨハネ8・10〜11)
(中略)
キリスト教が単純な性善説でないことは、どれほど私にとって優しいことだったかしれない。人間は本来、誰もがいい者であるなどと保証されたら、私は自分が規格はずれだと思いこんで、その場を立ち去るほかはなくなる。
しかし初めから正しい者も、完全に善を行う者も、一人もいはしないのだ、と言われる時に、むしろ私は心おきなく、自分の弱さや、他人の弱点を見つめることができるようになる。そして自分はもう許されないであろう、とか、あの人は許し難い人間だとか思わなくて済むようになる。なぜなら、悪い点の人間はいない、と聖書は、そもそもかくも明確に断言し続けているからである。
- 作者: 曽野綾子
- 出版社/メーカー: 新潮社
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unizouが望んだのは、資産家夫婦ができれば生きていて、両親のことを労り、投資をした人たちや投資を受けた人たちのことを真に思いやる、そうした生き方をしてくれたら良かったのに、ということだけである。