どうしても受け入れられないこと

 悪いことだと言うわけではないが、どうしても受け入れ難いことがある。

 最近のニュースで、「卵子提供ボランティア募集へ=不妊女性にあっせん−民間団体」というのがあった。
 不妊治療を行う医師や患者会関係者らが14日、東京都内で記者会見を開き、民間団体「OD−NET」(岸本佐智子代表、本部神戸市)を設立し、早発閉経などで卵子がない女性に卵子をあっせんする事業を始めるということらしい。
 それを受けて、厚生労働省は、第三者からの卵子提供など生殖医療について「国内の実態、外国の法律を整理しながら日本でどう進めていくか検討したい」というニュースがあった。

 埼玉県の副知事をされた坂東眞理子さんの著書「女性の品格」(PHP新書)のP136に、次のような引用がある。

「神よ、私に変えるべきものを変える勇気と、変えられるものを受け入れる寛容さと、変えられるものか、変えられぬものかを見分ける知恵を与えたまえ」というのは誰の言葉だったでしょうか。

女性の品格 (PHP新書)
 「子どもがほしいと願う気持」は、よくわかる。
 しかし、それは、その人の気持であって、我欲だと思う。
 おもちゃ売り場で、駄々をこねて、おもちゃを欲しがっているこどもと何が違うのだろう?
 以前、親がこどもの名前に「悪魔くん」と名付けたことで、世間は親を非難して大きな話題になった。
 これも、unizouにすれば、こどもをおもちゃにして遊んでいるとしか思えない。

 以前川嶋あいとトルストイ「人はなんで生きるか」 - unizouの中小企業診断士への道というテーマでブログに書いた高校時代の英語の授業で副読本として使ったトルストイの「人はなんで生きるか」のことを、懲りもせず、また持ち出したい。

トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)
 

 天使が、神様がふたごの子を生んだばかりの女の魂を取ってくるように言われたのに、女が「ふたごの子の父親は最近死んで、今、自分が死んだら、この子達を育てようがない。ひとり立ちができるまで見させてください。」と言ったので、天使は魂を抜くことができなかったため、神様の逆鱗に触れ、天使に「その母親から魂を取れ、そうしたら、三つの言葉が分かるだろ―人間の中にあるものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか、この三つのことが分かるだろ。それが分かったら、天へ戻ってくるがいい。」と言いい、地上に真っ裸で落とされる。
 地上で凍えていた天使を、日々の暮らしがやっとの靴屋セミョーンが助ける。
セミョーンは天使を家に連れて帰り、天使はそこで暮らす数年間で、その三つの言葉、三つのことが分かり天に戻っていくと言う話である。
 神様の第一の言葉「人間の中にあるものの何かを知るだろう。」とは、「愛」。
 第二の言葉「人間に与えられていないものは何か。」とは、「この人は、一年先のことまで用意しているが、この夕方までも生きていられないことは知らないのだ。」ということ。
 第三の言葉「人間はなんで生きるか」

 ふたごの女の子が、一人の女の人といっしょに来ました。わたしは、その子供たちがわかりました、その子供たちが死なないで生きていたことを知りました。知ってそうして考えました―≪あの母親が子どものために頼んだ時、わたしは母親の言葉を信じて、両親がなくては子どもは育たぬものと考えた、が、このとおり他人の女が乳をくれて、二人とも大きくなったじゃないか≫そして、その婦人が他人の子どものために感動して泣きだした時に、わたしはその人の中にも生きた神様を見て、ひとはなんで生きるものであるかを知りました。・・・【岩波文庫トルストイ民話集「人はなんで生きるか」他四編中村白葉訳】


 他人の卵子精子の提供を受けたり、あるいは、他人の子宮を借りてまで、子どもを熱望している女性の気持は、真実の「愛」ではないと思う。
 それは、自分の満足を得るためだけの我欲だと。
 変えられぬものを受け入れる寛容さを持つことで、本当は、本当に困っている子どもたちに真実の「愛」を届けることができるのだと思うのだが、unizouの偏見だろうか。