善と悪

 このところいろんな不祥事が報道されている。
 食品業界だけでなく、いろんな業界にも及んでいるし、行政もそうである。
 しかし、どうもunizouはそれを行なった人たちを単純に善と悪で判断する心境にはなれない。
 もちろん罪を犯した人たちを、「許されるべき者」と言いたいのではない。
 ただ、それぞれの罪を犯した者の奥深い真実を思うとき、罪は罪として裁くとしても、完全に「悪」と言うには憚られると思うのである。
 曽野綾子さんの著書「心に迫るパウロの言葉」の「正しいものはいない」では、次のような一節がある。

 キリスト教が単純な性善説でないことは、どれほど私にとって優しいことだったか知れない。人間は本来、誰もがいいものであるなどと保証されたら、私は自分が規格はずれであると思い込んで、その場を立ち去るほかなくなる。
 しかし初めから正しい者も、完全に善を行なう者も、一人もいはしないのだ、と言われる時に、むしろ私は心おきなく、自分の弱さや、他人の弱点を見つめることができるようになる。そして自分はもう許されないであろう、とか、あの人は許し難い人間だとか思わなくて済むようになる。なぜなら、悪い点のない人間はいない、と聖書は、そもそも初めからかくも明確に断言し続けているからである。

 unizouもこれまでの人生で、犯罪として裁かれるようなことは起こしてこなかったが、では、全然後ろめたさのない生き方をしてきたかと言うと、決してそうではない。
 いつも、自分の悪さや弱さに慄き、戸惑い、辛うじて線上を綱渡りしてきたのではないかと・・・。
 そして、曽野綾子さんが書いているように、それゆえに自分の弱さから他の人が同じように弱い一面を持ち、自分を大事にし、庇っていることを知ることができたと思っているし、その弱さを許すことができるようになったのだと思っている。
 もちろん自分自身も、同じように許されないだろうと思うこともなく・・・。
 先日、映画「HERO」のことについて書いたが、まさしく、主人公久利生公平は、こういった人間の奥行きを若くして知っているということなのだという気がしている。
 そして、真実にのみ目を向けて、事件に当たっていくといった感じだろうか。
 最近の風潮を見てみると、誰もが善を行うがごとくに、人の不祥事を徹底的にいたぶるような気がしてならない。
 罪は罪であるから、それを許せということではないが、もっと冷静に事実を見つめて冷静に対処すべきなのでないかと・・・。
 まさに今の風潮は、魔女狩り的な側面が見られるのではないかと・・・。
 こういったぎすぎすした世の中では、周りの誰もが敵であるかのごとく、心休まるときもないだろう。
 誰もが人間の奥深さをもっと知るようになれば、逆に犯罪も減り住みよい街になる気がしてならない。