幸せは過去にも未来にもない、今ここにある

 20歳を過ぎた頃は、妙に学生時代が懐かしく、その頃に戻りたいと思っていた時期があった。
 そして、反対になぜか自分が不幸だと思っていた時期は、早く幸せな日々が来ないかと未来を見つめていた。 
 最近は、ここで生きている今が、幸せだと思うようになった。
 だから、このときが過ぎていくのを惜しい気持ちが強く、また、未来が恐いほどである。
 確かにあの時、あの人たちと、幸せなときを過ごしたと思い出すこともある。
 しかし、そのときに戻りたいというより、そんなときを過ごせたこと自体を感謝する気持ちでいっぱいだ。
 座右の書の蒼竜寺公方俊良住職の著書「般若心経人生を強く生きる101のヒント」には、今日のブログの題名の章があるので、紹介したい。
「時という存在は、忙しさに追われ、自己を見失っている人には生じ得ないのです。時は、雑事から解放され、自己を自覚したときにのみ存在するのです。そのとき初めて、“時”は全世界に充ちていることが実感できます。これほど充実した時を知り得た人は、果たしてどれだけいるでしょうか。
時は、頭を使うことによって得られますが、時はまた、気を使うことによって失われるものです。雑事に気を使うということは、自己を見失っているからです。
(中略)
『法句経』に、次の言葉が記されています。
悲しみがあれば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがある。悲しみも喜びも、善も悪も乗り越えてはじめて、囚われがなくなる。未来を思って取り越し苦労をしたり、過ぎ去った日を思って悔いていれば、刈り取られた葦のように痩せしぼむ。過ぎ去った日のことを悔いず、まだ来ない未来にはあこがれず、取り越し苦労をせず、現在を大切に生きていけば、身も心も健やかになる。過去を追ってはならない。未来を追ってはならない。ただ今の一瞬を、力強く生きていくことだ。今日すべきことは明日に延ばさず、確実にこなしていくことこそ、よい一日を生きる道である
まさに、頭を使っても気を使わず、今の充実に生きることこそ、覚悟の定まった強い生き方といえましょう。
人々は、そのような自分の幸福に期待をかけることをしないで、ただ他人の幸せばかり気にし、しかも空想によってそれを誇大に思い、イライラして生きています。
他人の幸せなど見てもさっと通り過ぎ、もっと自分の本当の幸せを願うことです。」
 まさに公方住職のいうような毎日を送ることができるようになったunizouは、覚悟の定まった生き方ができるようになったのかもしれない。ただ、そうは言っても、たまに揺らぐ自分がいることも事実。
 揺らぐことなく、日々自分の幸せを願い、周りの人たちに感謝して生きて行ければ、それこそ自分を生かした幸せな人生といえるように思っている。