知恵のある者となるために愚かな者となりなさい

 自分のことを良い人間とも思えないし、かっといってどうしようもない人間とも思えない。
 ところが、良い人間でないことを嘆き苦しむ毎日を送っているわけにもいかず、どうしようもない人間でないからといって、そのことに満足する毎日を送るわけにもいかない。
 もし、そのことを真剣に煎じ詰めていけば、きっと、毎日が悶々とした日々になるだろうと、そして、人間でいることを放棄してしまう気になるだろうということは想像できることだ。
 自ら命を絶つ人は、きっと、そんな気分になってしまった結果なのだろうと思う。
 そんな気持でも欲をまとった人間だから仕方がないことと、いつも自分を見つめ反省し、毎日を送ることが大切だとずっと思ってきた。
そんな信念を裏付けるように、キリスト教にも仏教にもそんなことが書いてあると、ずいぶん前に知った。
 曽野綾子さんの著書「心に迫るパウロの言葉」(新潮文庫)には、次のようにキリスト教について紹介している。(抜粋)

 聖書を読んでいれば「××なら間違いない」という言い方をしなくなる。そして私は幸運にも、少し聖書を読んでいたのである。
 「ヨハネによる福音書8・7」には、「あなたがたのうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」という言葉が出て来る。姦淫した女は当時、石打ちの刑に処せられる筈であったが、、イエスズはそれに対してこう答えられたのである。すると彼女を引き立ててきた律法学者やパリサイ派の人たちは一人また一人と出て行き、最後にイエスズだけが、人の気配もない早朝の神殿に取り残された。
 「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを処罰すべきとみなさなかったのか』。彼女は、『主よ、だれも』と答えた。イエスズは仰せになった。『私もあなたを処罰すべきとはみなさない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはいけない』(ヨハネ8・10〜11)
 (中略)
 「愚かな者は『神はいない』と心のうちに言う。
  かれらは、腐った、いまわしい、わざを行なう。
  よい事をする者はいない。
  ヤーウェは、人の子らを天から見おろす、
  神を求める賢い者がいないかと。
  かれらはみな、わき道にそれ、ひとしく汚れ、
  よい事をする者はいない、ひとりもいない」
 二つを比べるとパウロの書き方のほうが率直である。
 キリスト教が単純な性善説でないことは、どれほど私にとって優しいことだったか知れない。人間は本来、誰もがいい者であるなどど保証されたら、私は自分が規格はずれだと思いこんで、その場を立ち去るほかはなくなる。
 しかし初めから正しい者も、完全に善を行なう者も、一人もいはしないのだ、と言われる時に、むしろ私は心おきなく、自分の弱さや他人の弱点を見つめることができるようになる。そして自分はもう許されないであろう、とか、あの人は許し難い人間だとか思わなくて済むようになる。なぜなら、悪い点のない人間はいない、と聖書は、そもそも初めから断言し続けているからである。
 (中略)
 「もし、あなたがたのうちに自分をこの世で知恵のある者と思う人がいるなら、本当に知恵のある者となるために、愚かな者となりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」(一コリント3・18〜19)

 謙虚な感性を持って、神からの「恵み」によって生きていることに感謝しつつ、毎日を送っていこうと思う。