命、そして生き方

 お彼岸のあと、大親友のK君に会った。
 そのときの話が、お彼岸に行ったお墓参りの話し。
 K君の父親は、K君が16歳になった翌年の正月元旦の朝方亡くなった。
 大晦日に病院に顔を見に行って、父親が死ぬことなど想像することなく、毎朝の日課で新聞配達に出かけ、販売店に帰ってきてから父親の死を聞かされたという。
 それから、ずいぶん月日が経った。
 K君は、毎年、欠かさず墓参りをしているが、今年は何だかいつもと気分が違う年だったというのだ。
 それは、墓石に刻まれた命日と享年。
 ついに、父親の死亡した年齢と同じになったとういうことで、妙に感傷的な気分になったという。16歳で父親の死を迎えたときとは違って、同じ年になって感じること・・・。
 今、K君が思うこと、やっていること。
 K君の父親がその当時思っていたことを想像し、やっていたこと考え、その当時の状況や、そのひと自身の生き方に思いを巡らせていくと、それぞれにとって重みのある人生だったのだというような気がして、人それぞれの人生があるのだと感じたというのだ。
 K君の父親は、酒飲みで怠け者だったり、女性問題があったりと、決して世の中から見ていい父親ということではなかったが、すべてを受け入れて自分の父親であると思っているという。
 自分の父親の死にいく姿についても教えてくれた。
K君がいうには、K君の父親は自殺ではなく、本人がそうしたいと望んでいるわけでもなかったかも知れないが、自分の命を死へ向かわせていたような気がするというのだ。
 つまり、その当時のK君の父親の境遇から考えると、死にたいと思うことはなかったものの、生きることを放棄してしまったというようなことらしい。
 今、K君はそのことを、父親が教えてくれた教訓のように感じているという。
 「生きる意思がなければ、人は自然と死へ向かって歩を進めていく。ただ、命を永らえることなどないと・・・。だから、毎日強く生き抜こうとすることが大事だと・・・。そして、人は生まれながらに重荷を背負っていることも事実であり、それを認め、受け入れてこそ、スタートラインに立てるのだということも教えてくれたような気がする」
 K君の言葉を噛みしめながら、最近自分の命、生き方を見つめている。