自殺

 先日のブログで、松本引越センター社長の自殺について書いたところauさんから「あなたは、人間の死に対する尊厳を冒涜してると思います。」とのコメントをいただいた。
 また、「あなたは、自殺した人とその関係者の気持ちを知ったうえでコメントしていますか?」、「あなたは、たぶん松本さんがどんな人だったかも知らずコメントしていますね。そのことだけでも、死者に対する冒涜だと思います。」とのコメントもいただいた。
 そのようなコメントをいただいたので、なんだかunizou自身が「人」でないような気がして、しばらく心が落ち着かなかった。
 確かに松本社長のことを知らないのは事実である。
 しかし、関係者の気持を思えば本当に辛いことだと衷心からそう思っている。
 といって、自殺についてコメントすることがいけないのだろうか?
 「どんな事情があるにせよ自殺してはいけない」というメッセージも送ってはいけないのだろうか?
 今回の自殺を客観的に見た場合、「日本の企業の多くが事業承継を世襲で行っていることが、社長の自殺という結果を招いたことだけでなく、企業モラルが低下する要因ではないか」と訴えることもいけないのだろうか?
 auさんの言葉を使わせてもらうなら、「自殺は、『与えられた命に対する冒涜』」である。
 「どんなに精神的に、肉体的に辛くても、痛くても、耐えられなくても、希望の光が見えないと思うような状況でも、自ら命を絶つことは許されない」というのが、unizouの持論である。
 以前、著名な評論家の江藤淳さんが自殺した際、「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」という遺書を残した。
 その当時、テリー伊藤さんが、テレビで「『江藤さんの美学』ですね」といったコメントをしていたのを今でも覚えている。
 しかし、どんな状況におかれていても生き抜く人のほうが、「かっこいい」のではないかと思っている。
 自殺は、どんなにすばらしい生き方をし、どんなに功績を残した人との人生さえも喪失させるほど、良くないことだと思う。
 「形骸を断ずる文芸評論家の江藤淳さんの自殺から考える」というホームページに、江藤淳さんの自殺について論じていて、共感するものがある。【http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news/jisatu/keigai.html
 そして、曽野綾子さんも産経新聞の[ 2006年03月27日 東京朝刊 生活・文化面 ]「【透明な歳月の光】(197)自殺させない教育」で、北九州市で小学校五年生の男子が自宅で首を吊(つ)って死んだ事件について、次のように述べられている。

 ほんとうの理由は、自殺者当人にしかわからない、というのが正しいだろう。(中略)
 自殺は、生きているのが辛くて辛くてたまらない、と言う性格上の問題でない限り、一種の復讐(ふくしゅう)の目的を含んでいる。最早(もはや)話し合いのできないような立場に相手を置き去りにして最後通牒(つうちょう)をつきつけるのだから卑怯(ひきょう)な行為である。

 とても苦しい状況になったら、命を絶って周囲の人たちを拒絶するより、「もうダメだ」と弱音を吐いて、周囲の人間に救いを求めるほうが、人間らしくていい。
 そうすることで、本人が救われるだけでなく、周囲の人間が救われることになるのだ。
 飯島夏樹さんや藤田憲一さんのように、死に直面していても、人間の弱さや死に対する恐怖といった感情を見せながらも、与えられた命を生き抜こうとする姿こそ、称賛され、尊敬される生き方だと思う。