忠臣蔵

 ずっと気になっていた場面、せりふがあった。
 22年前に大晦日とその前日、日本テレビで放送された忠臣蔵
 討ち入り後、討ち入りに参ずることができなかった西郷輝彦演じる毛利小平太が、仇討ちを果たした一行が多くの民衆の拍手喝采を受けて凱旋する沿道で、1人膝まずいて迎えているシーン。
 討ち入りに参ずることができなかったことを悔やんでいる毛利小平太に向かって、里見浩太郎演じる大石内蔵助が言った言葉。
 まだ、大人といえない時分であったunizouが、生きることの難しさや死ぬことの難しさを、なんと端的に表しているのかと、当時から気になっていた言葉だった。
 この言葉を捜すために、この土日にレンタルビデオ店からビデオを借りてチェックした。
 そして、今観ても、感動を覚えるものだと、また、感動した。
 そのせりふ、次のようなものだった。
「小平太、この度のことでこの内蔵助、死ぬことより生きることの難しさをつくづく思い知った。貧しくとも強く生きよ」
 ドラマゆえ、真実の歴史とは違うかもしれない。
 しかし、あれだけの大事を成し遂げた大石内蔵助が、生死に大いに悩んでいたとしたら、ありうることだったと思えるようなドラマだった。
 それは、自らのためでなく、家族のためであり、それも、第一は討ち入りに参じた同志の命、その家族のためであったと思うのは、至極当然のことであるように感じたからである。
 義に生きなければいけない身でありながら、同志の命を思う。
 この言葉の意味するところは、討ち入りに参加した同志の生き方、死に方でもあり、また、森繁久弥演じる吉良上野介の生き方、死に方にもあったかもしれない。
 いずれにしろ、動物でなく、人として生きることというのはこういうことなのかもしれないと思う。
 ところが、最近、命を無駄にする人も多く、また、少しのお金のために人の命を虫けらのように奪う輩も多い。
 格差社会といわれるように何でもお金があるかないかを論じることが多くなってきて、お金がたくさんないと生きていけないような論調になってしまっている現在。お金がないことを嘆いて自殺し、お金のために人の命を奪う時代となってしまった。
 本当は、お金のあるなしを論じることよりも、一生懸命働いて自分を活かすことや、貧しくても正しく生きる清貧であることを教えることのほうが、より心が豊かになって、大石内蔵助が言った「貧しくとも強く生きよ」にも通じるものがあると思うが、どうだろうか。
 格差社会で所得を論じることによって、心豊かな生き方を放棄してしまっているのではないかと・・・。
 忠臣蔵を「義」についての教本としてみるのでなく、人が与えられた命を生かして生きていくという生き方に焦点を当てているとしてみるのも、一つの見方だと改めて思っている。