学ぶということ

 昨日のテーマは「一生勉強 一生青春」ということだった。
 相田みつをさんは、「年を取ると、頭、心が固くなって、感動・感激を覚えなくなる。だから、一生勉強 一生青春と何かに打ち込む」ということを書かせてもらった。
 おかげさまで、1次試験が終わったせいか、たくさんの方にアクセスしていただいた。
 ついでといっては何だが、「では、なぜ学ぶのか」ということの本質をunizouなりに披露したいと思う。
 実は、unizouは、学校を出てから、しばらくの間無為な日々を送ってしまっていた。(と、今になっては思う。もちろん、そんな無為な日々も、今の自分があるためのものともいえなくはないが・・・)
 学校へ行っている時代が終われば、勉強することも終わると、もう、何もしなくていいのだという感じである。
 ところが、「社会人になったから学ぶことを止めていいかというと、そうではない」ということにあるとき気が付いた。
 しかし、社会人になって学ぶということは、日々の仕事に支障がない程度の知識があれば、誰も学ぶことを強制したり、環境を整えてくれたりしないのが現実である。学校に行っている時代は、強制されるわけではないが、それが当然で、環境もそうなっていたのだが、社会人になれば、自分がそういう環境にしなければ、学ぶ機会などないのである。
 このことについては、中谷彰宏さん「こんな上司と働きたい【PHP文庫】」の、「会社が学校になり、上司が先生になる。人を育てられない会社に、優秀な人材は集まらない」に、次のようなことが書かれている。

 全員が大学まで行ったとしても、教育期間は、たかだか16年です。サラリーマン時代は、その3倍近くの長さがあるわけです。本当の勉強は社会に出てからするものです。学校での勉強は、勉強の準備に過ぎません。
 社会で仕事をするために勉強していたのではありません。仕事を通じて、勉強していくのです。これまでの時代は、いい会社に入ることが目的であり、そのために勉強していました。いい会社に就職することが目的であり、勉強していい大学に入ることが手段でした。
 ところがこれからの時代は、勉強できる会社、すなわち自分を向上させてくれる会社に優秀な人材が集まるようになります。勉強が目的で、就職や仕事はその手段になっていくのです。つまり、人を育てることができない会社に、優秀な人材は集まらないということになるのです。自分を磨くために、門をたたくのです。

 「自分を向上させる」、「自分を磨く」といった目的のために、勉強していくということ。
 では、「自分を向上させる」、「自分を磨く」ということは、どういうことなのか。
 「これを一言で表すようなことは何か」と考えるとき、いつもunizouの頭の中に浮かぶのは「俳句」のことである。
 俳句は、たかだか五七五の言葉の中に、深い意味が込められている。もちろん、短歌でも、詩でもそうだと思うが、あえて「俳句」としたい。
 ところが、俳句を理解するには、深い知識と教養がなければ味わうことができない。俳句は人生の一瞬一瞬を切り取ったものであり、それが理解できないということは、人生を理解し得ないということかもしれない。
 俳句を例に挙げたが、学ぶということは、生きる本質を掴み、人生を味わうことなのだと思うのである。それは、自分の人生をということでなく、一緒に生きている人達の人生も、人間の普遍的な人生についても含めてのことだと思っている。
 「学ぶということは、どんなことを学んでいくにしても、究極的には、人間の本質に迫り、人間の弱さや強さ、賢さや愚かさを知り、人生を味わって生きるために、一面的な見方しかできないような自分に磨きをかけていく手段なのだ」と思っているのだが、みなさんはどうだろう・・・。