葬式は家族の行事である

 最近、著名な方が亡くられたという報道が多い。
 あの頃から10年しか経っていないのに、もう、この世界に一緒にいないのかという不思議な想いを抱かせる人もたくさんいる。
 死ぬということは、「夕べこの世界に生きていた人も、朝にはいない」ということなのだから、そんなことは当たり前のことなのに・・・。
 そんなことを考えながら、昨今の葬儀が近親者のみで執り行われているのに、非常に共感を覚えている。
 実は、unizouもあるときから、父や母など近親者が亡くなったら、自分の知り合いには葬儀に来てもらわないほうがいいと思うようになった。
 父や母と直接つながりがある人なら、是非来ていただいて亡くなった者を偲んでいただきたいと思うのだが、自分の知り合いがたくさん来て、unizouを慰めてくれるとしても、できればそっとしてほしいとうのが心情なのだ。
 特に、子どもが成人し、齡六十を超えた者の死なら、自然の摂理であり、親族も淡々と受け止めなければならない。だから、できるなら、身内の者にとっては、在りし日の姿、亡くなった者とのふれあいなどを想い出しながら、その死を噛みしめる時間が多くあるほうがいいと思うのだ。
 そんなことを考えるようになっていたら、折しも、先日、支社の部長の父上が亡くなられた。
 父上を亡くされた部長は、「近親者のみで葬儀を執り行うので、香典、葬儀への参列を遠慮します」と、会社に伝えたらしい。
 そして、その際、葬儀を家族のみで行うと言った場合に、周りの人間がどう対応すればいいのか、考えさせられることになった。
 しかし、周りの人間は、「そうは言っても、行かないわけにはいかないだろう?」と、示し合わせて行くことをせずに、個人個人で出かけることにしたというのである。
 部長の本心は、一体どうだったのだろう?
 来てもらって、本当に申し訳ないと思っただろうか?
 それとも、「やはり、うちの会社なら、『香典、葬儀への参列を遠慮します』と言っても、来るだろうな・・・」と思って、苦笑いしていただろうか?
 それとも、大いに喜び、来た者に忠誠心を感じただろうか?
 unizouが部長なら、ブログの最初に書いたように思っているので、「あれだけいいって言ったのに・・・。」と、肩を落としたかもしれない。
 「なぜ、人はそういう気持を素直に汲んでくれないのだろうか?」と。
 以前から紹介することの多い曽野綾子さんの「敬友録『いい人』をやめると楽になる」【祥伝社黄金文庫刊】には、曽野さんの母(83歳)、義母(89歳)、義父(92歳)の死について次のような記述がある。

 三人の老い方と死に方を身近で見られたことは、私にとって最大の『役得』であった。親たちは,秘かに静かに、自分らしく死んだ。彼らの望みで、私たちは、その死を世間にはひた隠しにした。
 特別な人を除いて死は家族のものである。葬式は家族の行事である。ましてや長生きして、社会から引退していた人の死は、秘かに静かにあるのが、私は好きだ。しかし死の後始末は、その家の好みによっていかようにもすればいい。

 人の死とは、そういうものかもしれない。「せめて、死ぬときぐらい、毀誉褒貶に踊らされず、本心からその死を悼んでくれる人たちに死んだあと折々に思い出してもらえるくらいが、さぞかし幸せな人生だったと思えるかもしれない」と思っている。