松岡農相

 月曜日に、松岡農相が自殺するというショッキングな出来事が起った。
 死者を鞭打つようなので、本当は、今言及したくないのだが、こういった人が自殺することの影響を考えると、どうしても言及せざるをえない。
 石原都知事が、松岡農相の自殺について、「彼も侍だったんだね」というようなことをインタビューで答えていた。
 松岡農相の自殺のどこが、「侍だった」のか、unizouには理解できない。
 己を捨てて他の者のために行った行為であれば、そうとも言えるかもしれない。(・・・、それでも、賛成できないが)
 しかし、今回のニュースで、そういった話は一切聞かれない。
 自分の行いを自分で始末したに過ぎないのではないか。
 それも、内閣を挙げて、子どもたちの自殺を食い止めようとしている最中に、安易に自らの命を絶つという最悪のやり方で・・・。
 もうしばらく前になるが、俳優の里見浩太郎さんが大石内蔵助役で主演した日本テレビの『年末時代劇スペシャル「忠臣蔵」』というのがあった。
 討ち入りを果たし、四十七士(がいよいよ切腹という場面がある。
 そこへ、討ち入りに参ずることのできなった浪士が、陰から大石内蔵助に声をかける。
 そのときの内蔵助の答えが、次のような感じだった。
 「内蔵助、このたびの件で、死ぬことより、生きることの難しさを知り申した」
 この「生きることの難しさ」とは、「本当は生きたい」ということの裏返しであり、「生きられる道が一番いい」という意味の言葉だと受け止めている。
 それは、自分の命を捨てること嫌ったという意味でなく、四十七士全員の命を助けたいということであり、四十七士に繋がる人達のためにも、そう思っていたのだと思う。
 しかし、実際は、討ち入りに至らざるを得ない状況になったことや、幕府から「生きる」選択肢を与えられなかったために、「死ぬ道」しか残されなかった。大石内蔵助だって、切腹が最良の道であると考えたのでなく、また自ら死を選んだわけでもないと思う。
 unizouは、この「生きることの難しさ」は、こんな大事を成し遂げる大石内蔵助のような人物でない、一介の庶民であってもあると思っている。
 それも、真剣に純粋に生きている人こそ、そう感じるのではないだろうか。
 そして、この「生きることの難しさ」を乗り越えることが、物凄く大事なこととして、人間に与えられているのだと思う。
 人間には、きっと、自ら死を選択する道は与えられていないというのが、unizouの持論だ。
 だから、どんなことがあっても、生きなければいけない。
 生き続けること自体に意義があることなのだ。無様で、生き恥を晒すような生き方であっても・・・だ。
 子どもたちを取り巻く環境が悪くなり、「生きている意味さえ感じない」子どもたちも多くなっているかもしれない。
 そして、そのために、安易に死を選びたくなる子どもが多くなっているのかもしれない。
 それでも、生き続けることで、その存在が誰かに何らかの影響を与える。
 「人間は、死ぬまでに、いくら年を取っていても、死の前日でも、いつでも生き直すことができるはずなのである。」(「心に迫るパウロの言葉」曽野綾子著:新潮文庫
 今回、松岡農相のような要職にあって、国民の注目を浴びている人が、今回のような選択をした弱さに、何ともいえない気持ちになる。
 生き直して、生き恥を晒してでも生き続けることで、多くの人にもっと意味ある大きな影響を与えることができたはずなのである。
 ただただ、今回の事態が、安易に死を選ぶような人達を増やさないことを祈るだけである。