正しいものはいない

 仏教徒でもなければ、キリスト教徒でもない。
 しかし、仏教、キリスト教を信じないということでもなく、「一方の宗教のある部分に共感を覚え、それがもう一方の宗教にも述べている真理」と知ることはしばしばあるものだ。
 そして、きっと、詳しくは知らないが、キリスト教と流れを同じくするユダヤ教にも、イスラム教にも、そういったことを感じることはあるかもしれないと思う。
 となれば、結局、世界で起こっている宗派対立などは、宗教の教えのせいでなく、その宗教を信仰している人間を原因にしているものなのだろうと思う。
 以前から紹介している曽野綾子さんの「心に迫るパウロの言葉」(新潮文庫刊)にも、そういったことが書いてある。

 【正しいものはいない 知恵のあるものとなるために愚かなものとなりなさい】
 つまりどんな宗教でもその中に必ずおかしな人、間違う人が出てくる。その人の行動や存在によって、その宗教は全てダメということはない、という大人の判断を十代のときから教えられたのである。

 とすれば、unizouは、おかしな人、間違う人のせいで、宗教は対立することになるのだろうと思う。
 話は変わるが、以前、「官庁と民間企業」というテーマでブログを書いたとき、ジョエルさんから、『いろいろご自身で考えているようですが,官がどれほど腐りきっているかご存知ないものと思われます。現実を知る人はこの記事を見て失笑するでしょう。』と指摘された。
 確かに、官庁の制度や一部の人の倫理観に欠如が見られるというのも事実であると思う。
 しかし、今述べたように、宗教でも「おかしな人や、間違う人の」のせいで、あらぬ方向に行くのである。また、正しい人はいないのである。
 曽野綾子さん、次のように述べている。

 聖書を読んでいれば「××なら間違いない」という言い方をしなくなる。そして私は幸運にも、少し聖書を読んでいたのである。
 「ヨハネによる福音書8・7」には、あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」という言葉が出てくる。姦淫した女は当時、石打ちの刑に処せられるはずであったが、イエスズはそれに対してこう答えられたのである。すると彼女をひきたてて来た律法学者やパリサイ派の人たちは一人また一人と出て行き、最後に女とイエスズだけが、人の気配もない早朝の神殿に取り残された。
 「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを処罰すべきとみなさなかったのか』。彼女は、『主よ、誰も』と答えた。イエスズは仰せになった。『わたしもあなたを処罰すべきとはみなさない。行きなさい。そして、これからは、もう罪を犯してはいけない』」
ヨハネ8・10〜11)
 (中略)
 しかし初めから正しい者も、完全に善を行う者も、一人もいはしないのだ、と言われると時に、むしろ私は心おきなく、自分の弱さや、他人の弱点を見つめることができるようになる。そして、自分はもう許されないであろう、とか、あの人は許しがたい人間だとか思わなくて済むようになる。なぜなら、悪い点のない人間はいない、と、聖書は、そもそもの初めからかくも明確に断言し続けているからである。

 こういった点を踏まえると、ジョエルさんのいう『官がどれほど腐りきっているか』と単純に片付けることはできなくなる。
 これは、官庁ばかりでなく、民間企業もしかりである。
 人間がやっていることなのだからと、そうならない工夫が必要なのではないかと・・・。