不二家の不祥事とメンタルヘルス

 車で数分の近さにある不二家の前を、久しぶりに通った。
 クリスマスはもちろん、ケーキが食べたくなると購入していた店である。
 不二家の不祥事がニュースになって、多くの人がブログなどで取り上げ、unizouも「不二家の隠蔽」と題して1月14日のブログに書いた。【http://d.hatena.ne.jp/unizou1972/20070114
 それから気になってはいたのだが、店を再開できる目処も立たず、未だに張り紙をしてシャッターを降ろしたままである。
 不二家の不祥事については、企業のコンプライアンスのあり方を問う記事やブログが多い。
 しかし、職場の風土はどうだったのか?
 先日紹介した「こんな上司が部下を追いつめるー産業医のファイルからー【著者荒井千暁 文芸春秋刊】にも、「劣悪上司が生まれる風土」と題して、2005年4月上旬にJR西日本で起きた福知山脱線事故を例にして、職場の風土について次のように述べている。

 さまざまなデータによれば、人間関係の悩みとして多いのは、残念ながら「対上司」である。ほとんどの組織体で当てはまり、コミュニケーションが希薄になっている例が大半を占めている。
 進言しても仕方ないと悟った部下は、次第にモノ言わぬ部下になってゆく。
 いよいよ「ベクトルが揃わない」状況になってくると、小さなトラブルや大きな事故があちこちで頻発するようになる。(中略)
 ギリギリのダイヤを組まれ、常に逼迫した精神状態で仕事をしていたことがあのような過剰速度での運転につながったのだろうが、そうした行為を取らざるを得なかった理由のひとつに「日勤教育」なる懲罰制度があった。報道から読み取れる内容は教育でなく、いじめである。ガラス張りの部屋という場で反省文を書かされるといった行為は教育の名を借りた見せしめである。
 それ以上に問題視しなければならないことがある。屈辱的見せしめが行われている現場を見た同僚や上司、あるいは部下たちが、なぜ意見しなかったかという点だ。
 事件直後、下から上に自由に意見できる風土がなかったとの意見も労組から出された。
 大きな組織体になればなるほど有能な人物が何人もいるのが普通だ。
 しかし誰も何も言わなかったということは、もはや進言することの無意味さやはかなさを知っていたということではないか?それが企業風土として諦念的事実として受け入れられていたということはなかったか?

 荒井千暁ドクターのいう「部下を追いつめる上司」が発生する職場の風土が、不二家にはなかったのだろうか?ギクシャクした人間関係はなかったのだろうか?
 報道される以前からこういった不祥事を知っていて、精神的に追い込まれていた人はいなかったのだろうか?
 北朝鮮のように、物言わぬ(物言えぬ)国民のようになって、「右向け右」と言われれば右に向き、「左向け左」と言われれば左に向く、それぞれの頭で考え、心で感じることをやめてしまったのだろうか?
 こんな状況を見ているといつも思い出す言葉がある。
 「義を見て為さざるは勇なき也
 世の中で起こっている社会問題の多くを解決する手段は、根本的には「誰もが何よりこういった気概を持ち合わせていること」のように思えるのだが・・・。
 そして、そういう気持を捨ててしまい、他人を思いやることさえなくなってしまったときに、「人は人でなくなってしまう」ような気がする。