生きる

 自分が生きている空間や時間は、自分だけの思いだけで何とでもなるものではない。
 「診断士の資格を取る」という自分なりの目標ができて、そうしようと実際に行動しようとして様々なことが起こるのと同じである。
 たとえば、診断士の資格を取ると決めた人に配偶者や子どもがいる場合、子どもが小さければ育児を協力し合っていたり、子どもがいなくても共働きをしている場合で家事を協力し合っていたりすれば、実際は配偶者や子どもの理解や協力がなければ診断士受検もできないようなものである。
 人によっては、職場の理解や協力が必要という場合だってあるかもしれない。
 学生だって、もしかしたら、親が「診断士になんかにならずに、公務員か大企業の社員になれ!」と言うケースだってないとはいえないだろう。
 自分の思いだけでできそうな、人生の全体から見ればたかが(?)診断士の資格を取るということ一つをとっても、自分の思いだけでない様々な思いが交錯する。
 だから、毎日生きるということは、人との関わりの中でそれぞれの思いに柔軟に処していかないと生きてはいけない。いや、生きていくのが辛くなる。
 それができずに、ストレスを抱えこんでしまい、心の病になっていく。
 そして、心の病は風邪のようなもので、どんな人でもなりうるのだ。
 最近起こった「歯学部を志望していた3浪中の兄が妹をバラバラ殺人」や「妻が外資系サラリーマンをバラバラ殺人」などの猟奇的な殺人事件のニュースを聞いても、人が生きている上で自分の思いとそれぞれの思いが複雑に交錯しあった結果なのだと思う。
 結局、兄や妻は、平常心では対処できなくなり「心の病」になってしまったのだろう。
 身の回りで起こっていることに柔軟に対応する術を見失ったのだろうという気がしている。
 こんなニュースになるような事件でなくても、日常茶飯事、普通?だと思っている自分でさえも、自分が身を置いている場所で自分の思いとそれぞれの思いが交錯する場面に出くわす。
 絶対に心穏やかに過ごしていられるかというと、そんなことはない。それでも、何とか生きていく術を知っているので、人との関係で最悪の結果にならずに済んでいるのだと思う。
 いや、「人が生きる」というはそういう「厄介で面倒な」ことだということを、自分の心の片隅で納得して生きているから、何とかやってこられたということなのかもしれない。
 先日のブログで書いた課内のK君も、昨日のブログで取り上げた弁護士の村松謙一氏が関わる企業の人たちも、「人が生きる」ということは「厄介で面倒な」ことだと、少し気楽になって生きてみたら、案外陥った境遇も含めて楽しい人生だと思ってくれるかもしれない。
 自分の思いだけで生きていけないところに、人生の面白さがあるのだと・・・。
 そして、まさしく、診断士を始めとする人を相手にする士業の人たちは、厄介なことやそれぞれの思いに首を突っ込む仕事。
 受検勉強だけで学んだことだけでは、到底やっていけないだろう。そこに、魅力を感じているのかもしれない。
 人生そのものを、厄介で面倒くさいと思っても、一方で、だから面白いと思える人生を送れたら生きた甲斐があろうと、最近、何だか、やたらそんなことを考えている。