こだわらない心 かたよらない心 とらわれない心

 最近は、「いじめ」が国民の関心事である。
 今ほど悪質な「いじめ」ではなくても似たようなことは昔からあったが、必ず正義の味方は一人ぐらいいた。あまりしつこくなったりしたら、必ずといっていいほど止めていた。
 いじめるほうも、「その子に関心があるから構っていた」というのが本当のところで、ほかの子に次から次へとちょっかいを出すようなことはなかった。
 ところが、今のいじめは、いじめる側も、いじめられ側も変わっていくと聞き、まるでゲームのようである。
 それだけ、いじめる側もいじめられる側も、「鬱屈」しているといえるかもしれない。
 周りからのストレスを自分で処理できずに、鬱屈した気持が誰かに向けられ、それが、同じように鬱屈した状態にある周りの人を巻き込んで、過熱、エキサイトしていくといった感じだろうか。
 そして、大人社会でもいじめはあったし、今でもあると思う。
 現代社会では、みんながストレスを抱え込んで、子供たちと同じように鬱屈しているから、そういったことが起こるのだろう。
 それはそれぞれが周りを気にしすぎたり、自分を素直に受け入れたりできないところが原因であるように思う。
 unizouも、いじめはしなかったが、周囲の目が気になったり、生き方の基準を自分で見つけることができなかったりした時期が結構長かった。
 自分らしく、自然体で生きようと思うようになったのは、つい最近かもしれないと思う。
 いつも、人との関係や、自分自身の能力のことで落ち込むときは、思い出すのがこの言葉仏教で言われる「こだわらない心 かたよらない心 とらわれない心」である。
 自分に対しても、他人に対しても、「こうあるべき」と思い込むと、ストレスがたまる。
 一生懸命やって結果が出たら、その結果に「こだわらない」、それしかないと「かたよらない」、そのことに「とらわれない」といった感じだろうか。
 そう思うようになってから、結構気が楽になった。
 なんでも、前向きに取り組むようになったし、手を挙げたことが取り上げられなくても落ち込むことはなくなった。
 そんな状況を見ている周りから言われるのが、「超プラス思考ですね・・・?」という言葉である。
 別に、「超プラス思考」でやろうと思っているわけではなくて、「こだわらない心 かたよらない心 とらわれない心」でいくと、自然とそうなるのである。
 unizouも含めて診断士試験を受検した皆さんは、きっと、「受かりたい」一心でいると思うが、結果は思うようにはいかないもの。これから、2007年の受検を目指している方も、思うように毎日勉強できないストレスを抱えていると思う。
 ストレスがストレスを呼び起こさないように、やることはやったと、「こだわらない心 かたよらない心 とらわれない心」でいることが大事だと思っている。
 人生は、どう転んでも、最後は自分でその結果を受け入れなくてはならないのだから・・・。