大切な人を失っても・・・
もう、数年前になるが、高校時代の友人の母親が亡くなった。
気さくで明るいお母さんで、泊まりに行ったり、遊びに行ったりと高校卒業後何度もお世話になったが、いつのときも「unizouさん元気にしてる?」と声をかけてくれて、気にしていだいていた。
夫である友人の父親は、反対におとなしい方だったが、妻である友人の母親を愛されていて、おしどり夫婦だった。
そんなことで、友人の父親にとって、妻の死は相当にショックだったようだ。
友人の母親が亡くなってからしばらくして、友人は結婚式を挙げたが、そのとき、父親の姿はなかった。妻の死のショックで、病気がちになり出席できなくなってしまったのだという。
それからしばらくして、妻を追うように友人の父親は亡くなった。
友人は、数年の間に、両親を相次いで失うことになった。
夫婦に限らず、親子、親友など大切な人を失う悲しみは、非常に深く、辛いものである。
中には、病気になってしまうということでなく、自ら命を絶つ人もいると聞く。
しかし、unizouは、それは絶対にいけないことだと思っている。
なぜなら、一人ひとりに生きる意義があるからであり、どんなに大切な人を失っても、その人だけのために生きていくことは許されず、それぞれが、与えられた命で、誰かに何かを与え続けなければならないと思っているからである。
それは、子である友人に対してであったかもしれない。あるいは、身近な人たちにかもしれない。近所の貧しい人たちや日本の、いや世界の貧しい人たちにかもしれない・・・。
自分の命を自分の身勝手に使うことは許されず、生まれてきた以上は、その大切な人の死を受け入れ、自然と死を迎えるまで大切にし、全うしなければいけない・・・と強く思うのだ。
特に○○教を信心しているわけではないが、神様は一人ひとりに命を与えて、それぞれの命に意義を与えていると深く信じているからである。だから、神様の了解もなく、命を粗末にすることは許されないという考えなのだ。
もう何十年も昔に、母が知人の子供のいない老夫婦のことを話したことがあった。
「Oさんのとこじゃ、この頃、ご夫婦がわざと別々に遊ぶようにしていらっしゃるんだって」
夫妻は母がよく尊敬の調子をこめて語っていた人たちであった。数年前に持ち家を処分して、鎌倉の方の老人ホームに入ったが、二人とも元気だったので、温泉旅行から梅見まで始終仲良く歩いているのが、自分は不幸な結婚をしたと信じこんでいた母には羨ましいようであった。
その夫婦がこの頃は、外出はできるだけ別々にしているという。
「あそこは、今まで何をするにも夫婦一緒だったけど、どうせどちらか一人残るんだから、それぞれ一人遊びができなきゃいけない、ってご主人がおしゃるんだって」
つまり意識的に夫婦が一人で遊ぶ練習を始めたというのである。初めは一人で喫茶店に入ることもぎこちなかったが、しだいに馴れて、知らない人とも口をきくようになった。ホームに帰ると、それぞれが、その日に体験したことをお互いに報告する。それが、人生を倍に生きていることだと思えるようにさえなった。「近ごろ好きな言葉」
敬友録「いいひと」をやめると楽になる 曽野綾子著 祥伝社文庫刊
unizouも、こうあるべきだと思っている。