心の声を聞け・・・滝川市の小六女児の自殺に思う

 毎日毎日、一緒に飲んでいる仲間でさえ、実際に、お互いの心の声を聞いているかというと、どうだろうか?
 “言葉を交わして”、お互いにそのつもりでいるだけで、本当は、お互いに何も知らないことが多いと思っているのは、unizouだけだろうか。
 自分以外の誰かが人生を代わってくれたり、人生を感じたりすることはない。
 だから、お互いのことを判ったようなつもりになって、実際は判っていないことの方が多いのである。
 そして、そう思って相手の心の声を聞こうとする姿勢になって始めて、相手のことが少しわかると思ったほうがいい。
 北海道滝川市の市立小学校の教室内で6年生の女児が自殺した問題は、その遺書が本当に“心の叫び”を伝える内容だったので、本当に辛く、悲しいものだった。少女の痛み、辛さが、ひしひしと伝わってくる内容だった。
 実はunizouも、小学校の4年生のときにいじめにあったことがある。
 (いじめといえるかどうかわからないが、そのことの後遺症よりも、誰でも簡単にいじめる側にもいじめられる側になるという教訓を得て、その後の人生にとって良かったかもしれない。)
 きっかけは、他愛のないことだった。
 ものすごく仲のいい子と放課後3人でソフトボールをしていて、そのうちの一人Ⅰ君(頭が良くて、ボス的な存在の子)の耳に、偶然、unizouが投げたボールが当たってしまった。
 ボールが当たったこと、謝罪の仕方が悪かったことに激怒したI君は、それ以降、同じクラスの男子全員にunizouを無視するように仕向けてきた。
 unizouは、先生にも、両親にも言えず、その境遇に耐えることになった。
 そして、そんな状況が数ヶ月間続いた。
 そのうち、いつも仲良く遊んでいたのにめっきり一緒遊んでいる姿を見なくなったのを変に思った女子や先生が、ホームルームでその事実を問いただしたことで仲直りすることになり、その一件は収束した。
 今では、そんなことがあったと思う程度になったが、その当時は、辛い毎日だった。
 今回の滝川市の事件では、少女の自殺後にいじめがあったことを知りながらその事実を隠し、何の対応もしなかった教育委員会が責任を追及されている。
 しかし、実際は、その女児を担任していた先生や同じクラスの児童、校長先生などの学校関係者、そして両親が、その子の“心の声を聞けなかった”という責任が大きいと思う。
 unizouは、“無視”されているだけで、直接的な害はなかったので、母親が、「何か変だね・・・?」と聞いても、「別になんでもないよ・・・。」と答えるだけだった。
 そんなことで、心配させたくなかったのかもしれない。
 でも、もっと、突っ込んで聞かれたら、答えていたかもしれない。
 結局、「見ているようで、見ていなかった」、「判っているようで判っていなかった」というのは、起こりうることなのだ。
 以前、ブログで紹介した中野佐世子先生が良く言われるマザーテレサの言葉、「やさしさ(愛)の対極にあるものは、憎しみではなく無関心である」という言葉を噛みしめて毎日送ることで、こんな悲劇は起こらないと思う。
 また、一方の自殺した女児と同じ境遇になった場合には、曽野綾子さんの言葉を噛みしめてもらいたいと思う。 

「ことに先生が子供の気持ちを完全に理解してくれることなど、そもそもあるわけがない、と親は子供になぜ教えないのだろう。毎日同じ家の中で暮らしている兄弟姉妹、夫婦、親子でも、常に気持ちをわかり合っているとは言えない。人生とはそんなものだ。二十人も三十人もの生徒の暮らしや性格や辛さを、二十四時間のうちの三分の一程度しかいっしょにいない教師がわかるはずはないと、親は教えるべきだ。」
 「だから自分を生かすのは自分だけだ、という冷たい見方、突き放した姿勢を、親が教えるのも有効だし、できたら子供自身が発見すべきだったのだ。」
(中略)
 「そんなふうに思っていても、私は生涯、いい人、楽しい人にたくさん会った。慰めになってくれた人も数限りない。そのおかげで私はその都度危機を脱してきた。だから私は、人間の能力の限度は知っていても、人間不信には一度もならなかったのである。」
2006年03月27日付の産経新聞【透明な歳月の光】(197)「自殺させない教育」抜粋