境遇と人生

 犯罪が起こると、よく言われるのは、
 「犯人にこのような事件を惹き起こさせた境遇とは、どんなものだったのでしょうか?」
といったような言葉である。
 しかし、同じような境遇にあるからといって、必ず犯罪を起こすとは限らない。
 経済的な面でも、貧しい境遇にあるものが、塾や予備校に行かなくても、一流大学(今では一流・二流という言葉は相応しくないかもしれない。自分のやりたいことができる大学と呼んだほうがいいかもしれない。)に行くケースはある。
 江戸時代のように学校(寺子屋)に行くことが特別な時代ならまだしも、とりあえず中学校まで行ける世の中なら、本人にその気があれば、いくらでも勉強することは可能な時代である。
 昔であれば、蛍雪*1で勉強したということだろう。
 何でも境遇のせいにしがちな現代社会には、これだけ満ち足りて可能性のある社会でも、自分の弱さを置いて自分の境遇を逃げ口上にしてしまう。
 生活にしてもそうである。マスコミのせい(マスコミばかりのせいでなく、日本人そのもののせい?)で、なんでも人と同じものをもっているのが、普通になってしまった。それも、お金がないのに同じものをもっている。
 昔なら、例えば、テレビがない、電話がないというのは、貧しければ当然そういうものだった。
 だから、近所に見に行くとか、借りに行くといった生活だったのである。
 今では、無理してでも買っている人が多いような気がする。
 人の生活が見えすぎるというのは、不幸なことかもしれない。
 テレビで流れてくる生活をしなければいけないと思い始めてしまう。
 そうなると、お金はなくても、貸してくれる所はたくさんある。
 そして、ローンで買い、サラ金が流行る。最後は、多重債務者になっていく。
 読売新聞の9月23日の「人物語」に金融庁に2年の期限で勤める弁護士の「森雅子」さんのことが取り上げられていた。
 中学校の1年生のときに、父親が親類の金銭トラブルに巻き込まれ、悪質な債権取立てに震えていた。家族は全財産を失い、受験を断念しようといたとき、進学後のアルバイト先まで世話して熱心に受験を勧めてくれた中一のときの担任の先生のお陰で高校へ進学した。
 その後東北大学へ進学し、苦学の末、28歳で弁護士資格を取ったという。
 今では、「世の不条理に巻き込まれ、なけなしのお金を失った人々を絶望の淵から救い出す。」と犯罪収益の奪還に関わる法整備に携わっているという。
 人間、境遇のせいにするのは簡単なことだが、好きなことのために、日々勤勉に、節制・節約している人もいる。
 価値が多様化している現代には、それぞれの人に夢や楽しみが持てる世の中になった。
 嘆き悲しんでいるよりは、まっすぐ進むことが幸せを手繰り寄せる秘訣だと思うのだが・・・。
 「『格差社会』、『地方格差』大いに結構」というのは、言いすぎだろうか?

*1:〔「晋書(車胤伝)」による。晋の車胤(しやいん)が蛍の光で、孫康が窓辺の雪明かりで書物を読んだ故事から〕苦労して勉学に励むこと。蛍窓。蛍の光窓の雪