藤田憲一氏2

 unizouブログには、502教室を通してブログを見てもらう人が多いが、検索語(単語)では、「藤田憲一」、「藤田」、「憲一」が、断トツに多い。
 「末期がんと闘う社長」としてマスコミに取り上げられている藤田憲一さんを、以前に数回ブログで取り上げたからだ。
 unizouの「死」についての考え方を言えば、「こればかりは本当に天命」という感じである。
 1か月前ほどになるが、一人暮らしをしていた隣家のおじいさんが亡くなった。家族の話では、前日までは外の掃除をして元気だったが、朝、亡くなっていたのを近くに住む妹が見つけたということだった。まだ、70歳前半だったようだ。
 数か月前には、我が社で期待されて出世コースの1番手であり支店の課長に抜擢された人間が、支店で課内の人間と飲酒をし、タクシーで帰るときに亡くなった。奥さんと子供が残された。子供は、まだ、幼稚園児と2歳にもならない乳児だったという。
 最近、「埼玉の園児ら17人死傷事故」というニュースがあった。
 被害者の保育園児の父親が、「加害者にも、被害者にもなってしまう現実がある。人ごとではない・・・。」と言っていた。
 そして、丹波哲郎さんの死。生前、丹波さんは、「人の寿命は決まっていますよ。死ぬときまで、楽しく生きること・・・。」といっていたと言う。
 2006年10月1日の読売新聞の「人物語」には、44歳で助産師の資格をとり、今では、8人の助産師を率いて「松が丘助産院」の院長となった宋祥子さんについての記事があった。
 助産師になる前、彼女は中野区役所で働きながら育児をしていて、当時生まれたばかりの長女が粉ミルクを拒み悩んでいた。そんな時、保育園からは「ミルクを与える練習をしてください。」といわれたが、結局長女は拒み、困っていた彼女は近くの助産師に相談した。助産師に「娘さんは賢い。何とかやりくりして、あなたのおっぱいをいっぱいあげなさい。」と言われて吹っ切れ、昼休みに自転車を飛ばし母乳を与えたという。それをきっかけに、「娘に母乳を与えていたときの喜びを伝えたい」と思うようになったという。
 それから、夫の助けを借りて、36歳で中野区役所を退職し東京医科歯科大学に入学、44歳で助産師になった。
 ところが、彼女を支えてくれた夫は、彼女が助産師として始めて赤ん坊取り上げたときに、すい臓がんがわかり、「余命3か月」と言われて5か月後になくなったという。また、その後の過労で彼女自身も49歳で子宮筋腫の手術を受けた。
 今、彼女の助産院は、「妊産婦一人ひとりについて、生活習慣や家族との関係を把握し、出産後もそれぞれの事情に寄り添って育児をサポートしていく。」という評判で、院長として8人の助産師を率いているという内容の記事だった。
 彼女は「助産院は夫が残したプレゼント」。「『あした死んでも悔いのない人生をここで送ろう』と心に決めた」ということが、その記事に書かれていた。
 「知らされている死期」、「知らされていない死期」、いずれも同じ死である。
 どちらかいいとかいうものでもなく、また、どちらにしたいと選べるような代物でもない。
 健康には注意できるが、事故には注意していても限度がある。
 一人ひとりに生があれば、一人ひとりに死がある。刹那的に生きることでもなく、また、死を意識しすぎることでもなく、彼女が心に決めた「あした死んでも悔いのない人生」というように、与えられた生を活かすことだけを考えて生きればいいというのが、unizouが「天命」「死」についていつも思っていることである。
 死ぬその時まで、自分がやりたいことはやろうと思えば大抵はできることだから・・・。