事例のモデルⅡ

2次公開模試の事例Ⅱのモデルとなったのは、横浜元町のバッグ屋「キタムラ」と書いたのはおとといのこと。
 そして、最後に明治15年創業、老舗「キタムラ」に相続に絡むお家騒動があり、結果、兄弟で分社化しあうことになってしまったことに触れた。
 実は、「キタムラ」以外の鞄屋さんでも、相続問題で、もめにもめた会社がある。
 それは、一澤帆布工業株式会社という、1905年創業の京都市東山区にある布製かばんのメーカーで、『京都市東山知恩院前上ル 一澤帆布製』と縫い込まれた赤枠のタグで有名だ。
 仏像好きのunizouは、以前京都を訪れるとよく立ち寄った。店舗は、靴を脱いで、畳の部屋で商品を選ぶという、まるで江戸時代の商店のようなたたずまいで、とても風情があった。
 会社、職人、工場、新ブランドに関する一連の流れは、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』に詳しい。
 2001年に前会長:一澤信夫氏が死去し、会社の顧問弁護士に預けていた信夫氏の遺言書が開封されたのち、長男:信太郎氏(元東海銀行行員)が、自分も生前に預かったと別の遺言書を持参した。2通の遺言書をめぐって論争となり、 当時社長だった三男:信三郎氏は信太郎氏の遺言書の無効確認を求め提訴したが、「無効と言える十分な証拠がない」として、2004年12月に最高裁で信三郎氏の敗訴が確定した。
 これを受けて信太郎氏と四男・喜久夫氏(家業に関わっていたが1996年退社)は、信太郎氏側の遺言書内容に従い一澤帆布工業過半数株式を取得。2005年12月16日に臨時株主総会を行い、一澤信三郎社長と取締役全員を解任した。この後、新たに信太郎氏、喜久夫氏と信太郎氏の娘の3人が取締役へ就任し、信太郎氏が社長となる。
 信三郎氏は最高裁判決より前の2005年3月、一澤帆布工業の製造部門を有限会社一澤帆布加工所と別会社化(西村結城代表取締役)。製造部門の職人全員が同社へ転籍し、一澤帆布工業から店舗と工場を賃借する形で製造を継続していた。しかし信太郎氏は社長交代を受けて、京都地方裁判所に店舗と工場の明け渡しを求める仮処分申請を行う。申請は認められ、2006年3月1日に強制執行された。その際、信三郎氏だけでなく、一澤帆布加工所へ転籍した職人たちも共に店を退去。一澤帆布工業は事実上、製造部門を全て失った形となり、2006年3月6日一澤帆布店は営業を休止した。
 一方、一澤帆布加工所は工場を確保し、2006年3月21日「信三郎帆布」と「信三郎かばん」を新たなブランド名とすることを発表した。そして、2006年4月6日、信三郎氏側は「一澤信三郎帆布」を一澤帆布店の道路(東山通)を隔てた蓮向かいに開店した。現在、店頭販売のみ行っているが、製造数に限りがあり、毎日早い時間に売りきれてしまっているという。
 ドラマのような本当の話だ。
 一澤信三郎帆布のHP(http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/)には、信三郎氏が一連のお家騒動を、当初は身内の恥ずかしい話として口をつぐんでいたが、会社の経営問題にまで発展してしまったことを受けて、明らかにする説明責任があるとして、いきさつを説明している。
 会社は、ある意味公的な存在である。しかし、経営権は、身分行為として相続においては、まさに相続財産と対象権となり、一身専属権に属してしまうことになる。
 「会社は誰のもの?」、鞄屋2軒を巡る相続トラブルは、公的存在としての会社、それを支える固定客、職人をはじめとする従業員といった様々な利害関係人への意識に欠けることを露呈し、日本の企業としての未熟さ・甘さを感じずにはいられない。