コーチングと人間関係

 人が袖摺りあって生きている世の中では、周りの人間すべてが、「自分にとって好ましい人たちだ」と思って過ごせるなんてありえない。
 それぞれが、違った環境で育ち、そして、家庭でも、さまざまな喜怒哀楽な人生模様があるのだから、当然といえば当然のことである。
 なのに「あの人は嫌だ」とか、「あの人がいい」とか、そんなことばかり言って、自分の能力が発揮できないのを、何でも人間関係のせいにしてしまう人が多くなったような気がするのは、思い過ごしだろうか。
 所詮、人間は、好きで結婚した相手でさえも、結婚した後、そして数十年も経つと、結婚する前とは打って変わって、相手に対する注文が多くなる。「こんなはずではなかった」ということも多い。
 であれば、職場の人間関係など、好きで一緒になったわけでもないのだから、悪いのは当然だし、良ければこんなめでたいことはないくらいに考えたほうがいい。
 ところが、人間なかなかそうは思えないらしい。
 心地よい人間関係ばかりを求めていて、それも、自分が心地よい人間関係を作ろうと思わずに、周りにばかり求めているから、上手くいかなくなると仕事を拒否したり、コミュニケーションさえも拒絶したりする。
 unizouの職場でも、どうも若手社員のK君とOさんの間にそんな傾向があるようなのだ。
 unizouにとっては、「この二人をどうするか」というのが、切実な喫緊の課題なのである。
 人間関係にばかりにとらわれず、どうやって自分のやるべき仕事に没頭し他人の中の良さを見出すことができるようにしようかと考えている。
 と考えていたら、最近読んだ診断士ブログの多くに、「コーチング」の話題が入っているというのに気が付いた。診断士の皆さんは、コーチングに興味がある人が多いのだろうか。
 unizouも、もう4年以上前になるが、コーチングの研修を受けたことがある。
 確かに、有意義ではあったが、今では「コーチング=テクニック」という気がしている。
 「コーチング」の研修は、unizouも含め、毎年多くの管理職が受講しているが、それで、社内全体が変わったということもない。
 また、相変わらずうつ病になる社員は増え続けている。そして、未だに「社内の雰囲気が良くなった。」とか、「上司の鏡のような人がいる。」ということを聞いたことがない。
 何が大事かということを、unizouなりに考えると、結局、「相手に関心を持っているという姿勢で聞く。」ことが一番大切なことだと思うようになった。そして、どんなに聞いてあげても、すべてを理解することや問題を解決してあげることは、聞いた本人にはできないということを伝えることが大事なことだと・・・。
 現実とは、そういうものなのだということを本人が理解して生きることが、何よりもたくましく生きる術なのだということなのだ。
 曽野綾子氏が、2006年03月27日付の産経新聞に掲載した【透明な歳月の光】(197)「自殺させない教育」で、unizouの言いたいことの的を射たことを書いておられる。
 「ことに先生が子供の気持ちを完全に理解してくれることなど、そもそもあるわけがない、と親は子供になぜ教えないのだろう。毎日同じ家の中で暮らしている兄弟姉妹、夫婦、親子でも、常に気持ちをわかり合っているとは言えない。人生とはそんなものだ。二十人も三十人もの生徒の暮らしや性格や辛さを、二十四時間のうちの三分の一程度しかいっしょにいない教師がわかるはずはないと、親は教えるべきだ。」
 「だから自分を生かすのは自分だけだ、という冷たい見方、突き放した姿勢を、親が教えるのも有効だし、できたら子供自身が発見すべきだったのだ。」
(中略)
 「そんなふうに思っていても、私は生涯、いい人、楽しい人にたくさん会った。慰めになってくれた人も数限りない。そのおかげで私はその都度危機を脱してきた。だから私は、人間の能力の限度は知っていても、人間不信には一度もならなかったのである。」
 いま、コーチングの技術も必要かもしれないが、本質的な部分は、相手に関心を持って「聞く」という姿勢であり、世の中にはどうやっても自分の思うとおりにいかないことが多いという現実を教えることが大切だと意を強くしている。