平和と人間の本質

 私たちは、穏やかな日々の暮らしに慣れきってしまって、平和も民主主義も、簡単に手に入るものだと勘違いしてしまっている。特に、経済的に裕福な人やテレビなどによく顔を出している人たちにその傾向が強いのはどうしたものかと思う。紛争も飢餓も、世界の至る所で起こっているし、日本がそうならないという保証はどこにもない、
 そんなことを考えていたら、昨日の産経新聞に二つの興味ある記事があった。
 一つは、二面のインタビュー記事「話の肖像画」に掲載された進化生物学者長谷川真理子さんの話。
 長谷川さんが言うには、「生物には、生きている目的なんて別にない。存在しているから、存在し続けようという原理が働く。また、メスをめぐってオスが戦うなどほかの生物は一生懸命、必死に生きている。人間が一生懸命やらなくても生きていけるのは、生き物世界では珍しいこと。ご飯が食べられることも、自分が敵に食べられないようにすることも、病気にならないようにすることも、すごく難しいこと。人間がこんなに守られているのを、当たり前だと思ったら違う。人間はいろいろなものを作り出し、自分と環境の間に文化を入れたから一生懸命でなくても生きていける。ただ、人間でさえも、こんな安楽な暮らしができるのは先進国の一部の一握り。」と。
 そして、もう一つは、曽野綾子さんの毎週月曜日に掲載されるコラム「透明な歳月の光」。今回は、「平和への希望 安易に言えぬ正義の覚悟」という題で書いておられた。
 「終戦記念日が近づくと、平和についての覚悟や心得をみなが口にする。改めて言わなくても、誰もが穏やかな毎日が好きであるが、しかし、誰もが平和好きだというのも錯覚である。この世に平和好きな人間と戦争好きな人間の、二種類がいるわけではない。一人の人間の中に平和と破壊を好む感情が混在しているのが、むしろ普通とみなさなければならない。私たちは穏やかな毎日も好きだが、戦争も、暴力も、抗争も、対立も、確執もどこかで支持している心理があるのだ。ボクシングのような人を殴ることを興行にして、見て楽しむ人もいる事実は、誰もが時には平和に退屈するということだ。平和は希望して語り継ぎ、千羽鶴を折れば実現すると思うような甘さとは縁がない。平和は、その達成のために自己の命を差し出す覚悟を持つことだ。向こうが向かって来ても、手を上げなければ、略奪、放火、レイプ、主権の剥奪、思想の自由の弾圧、強制労働、粛清は避けがたい。だから正義のために死ぬ覚悟の定まらない私のような者は、軽々に平和を口にしないようにしている。」
 人間は、その置かれた状況によって、善人から悪人にいとも簡単に変わってしまう。(変わらないでいる人がいたら、その人たちは、本当の聖人かもしれない。)
 置かれた状況がひどく、それが集団になれば、なおさら、動物の持つ本能に戻って、弱肉強食の世界になってしまうのは、 パニックという状況の中で我先に生きようとした人たちを事件や事故で、実際に目にしたり、耳にしたりした。
 だから、安易に人間を美化し信じてもいけないし、かといって、信じないこともいけないと思う。
 お二人の言葉は、人間の本質、現実に目を向けて、過敏な対応も安易な対応も慎むことが大事なことだと言っているような気がする。きれいごとだけでは、生きていけないと・・・。
 人間は愚かでもあり、賢くもある。そして、歴史に学ぶ力を持っている。
 曽野綾子さんが言うように、平和のために命を差し出す覚悟をしっかり持って生きられるか、それとも、あっさり、自分の尊厳を捨てて、奴隷のような生活でも命さえあればと思うか?
 できれば、unizouは前者を選びたいと思っているが、実際のところはわからない・・・。