中田英寿選手の引退に思う

 中田選手の突然の引退を惜しむ声が多い。
 unizouには、「彼がそれほどの人なのか?」という感じがして、共感を覚えることがない。
 以前にも書いたが、中田選手のキラーパスが相手の意表をつくのか、先を見越しているのかわからないが、ただ、人のいない空間にパスをしているだけで、人と人がパスをしていると、unizouが感じことは、ただの一度も感じたことがなかった。
 確かに、パスを出そうとする相手が超一流であるならば、中田選手のパスは通ったかもしれない。
 しかし、相手は、技能も経験も違う相手であり、ましてや、相手の見える風景と中田選手の見える風景は違う。
であれば、中田選手は、パスを出そうとしている相手のいる場所の風景を想像し、相手の経験や技能をきちんと評価して、パスすべきではないのか?
 サッカーを知らないunizouのような人間が、こんなことを言うのはおこがましいことかもしれないが、実社会では、それは至極当たり前のことであるものだと常々思っている。一人の人間の力ではどうしようもないことが多いのが、現実なのである。
 将棋でたとえるなら、すべての駒が王様でも飛車角でも、将棋としては勝てないのである。
 だから、それぞれの持ち味を出させることが、監督、そして、仲間たちの役目だと思う。そして、シナジー効果により、実力以上のものが出せる。
 中田選手がそういう立場で試合に臨んでいたかは、実際のところわからない。
 しかし、若い頃の中田選手ならそれで許されただろうが、経験を重ねていく中で、それが足りないのは致命的のような気がするのである。
 また、中田選手の引退は、「引き際の美学」とも言われている。
 しかし、unizouには、中田選手にとって単純に「サッカーが死ぬほど好き。」ではないというように映っている。
 野球の長嶋元巨人軍監督や王ダイエー監督のような、ほかにもいろいろできることはあるかもしれないが、ファンに野球で人生を教えるようなこともないように見える。
 彼の中にあるのは、「自分のやりたいことをやる。」という、ただそれだけのことだけではないかと映るのである。
 中田選手が、以前、「国旗や国家のためにサッカーをしているのではない。」というような発言をした時期があったように思う。
 確かに好きなことを、好きなようにできるのは一番かもしれないが、そうできるのは少数である。
 そして、野球でもサッカーでも、究極を言えば、なくてもいいものである。
 しかし、ファンは高いお金を払って応戦する。
 ファンは選手のプレイに、何を求めているのだろう?
 unizouは、ファンは自分の人生を重ねているのだと思っている。
 そして、ボーダーラインを決めるために国家があるのではなく、生まれ育った土地に対するただ単に愛着からであり、他国を卑下するためではない。自分の生まれた国を大事にすることで、相手の国をを尊敬することができる。(本当はそう思えば、戦争など起きないのだが・・・)
 中田選手が、これから好きなことをやっていくときに、是非相手が見ている風景を想像してくれたるようになったら、きっとサッカー以上の称賛と尊敬を受けることになると思うのだが・・・。