真の民主主義と民意

 読売新聞に毎週日曜日の1面と2面に掲載される「地球を読む」に、JR東海葛西敬之会長が寄稿されている。
 葛西会長の寄稿は、良識的で、私たちが決して誤ってはいけない民主主義のあり方を的確に教えていただいていると、常々思っている。
 先週の日曜日も、「『民意』を問う歴史の教訓」と題して、寄稿されていた。
 今回の寄稿は、在日米軍再編に伴い米空母艦載機移駐計画に関する岩国市の住民投票に関して、二つの歴史的事実から民主主義のあり方を説いているもので、一部の人たちの利益を守ろうとする「民意」が、時に全体の利益を著しく損ないうるということを如実に示していると説いていた。
 一つは、1960年の安全日米保障条約改定に時の反対闘争。

 反対派は、妥協の意思など微塵もなく、「等距離外交」「非武装中立論」で一般大衆の気を引き、次には激しい街頭デモを組織して少数の力を誇大に示威した。そして彼らが最後に用いたのが、「少数意見の尊重こそが民主主義の前提」とか「野党の了解なしに採決する強行採決は非民主的である」という詭弁だった。

 そして、もう一つは、第二次大戦直前の英・仏とドイツの関係の歴史。 

 アンドル河畔のある村では、フランス軍がドイツ軍の進軍を遅らせるために橋梁に仕掛けておいた爆薬のヒューズを、村人は自分たちの家や店舗を戦闘で壊されたくなかったために切断してしまった。またポアティエの市長は、ドイツ軍に降伏すべく、車に白旗を挙げて、フランス軍陣地の前を走り去り、市民は、フランス兵が構築したバリケードを破壊すると言って、兵たちを威嚇したという。
 今、中国が急速な軍備の近代化と拡張を進め、アジアの覇権志向を露にしつつある中で、米中対峙の構図が明確化し、これに対応するものとして、在日米軍の再編があり、東アジア地域の平和と民主主義を擁護するためには、基地の再編統合、共同運用は不可欠なものである。
 今回の岩国市の住民投票について、一自治体の「民意」に訴えて、民主的に選出された政府の意思決定、すなわち国民レベルの「民意」を修正しようとする試みことは、本来的に民主主義のルール違反であり、自殺行為にも等しいと言わざるを得ない。

 そして、フランスの作家アンドレ・モロワの著作「フランス敗れたり」を紹介している。

 ナチスドイツが急速に軍備拡大する中で、フランスの民意が割れ、資本家たちはフランスの安全より己の利益に専心し、ロシア革命に希望を見出していた労働者階級は、ドイツに好意的であり、インテリ自由主義者は「平和のためには一方的に軍縮を」と叫び、政治家は自分たちの政争に忙しかった。
 カナダに亡命するモロワが船中で書き付けたのは、「世論を指導すること。指導者は、民に行くべき道を示すもので、民に従うものでない。」「国の統一を保つこと。政治家というものは同じ船に乗り合わせた客である。船が難破すれば全員が死ぬのだ。」「祖国の統一を撹乱しようとする思想から青年を守ること。祖国を守るために努力しない国民は自殺するのに等しい。」

 私たちは、平和に慣れてしまって、今の生活が今後も保障されているかのような錯覚に陥っている気がしてならない。戦後60年平和だったのは、ピンボケの平和主義者や個々の自由ばかりしか主張しない自由主義者たちのおかげでは決してない。アメリカとともに在日米軍が日本にいたからで、北朝鮮からも、ロシアからも、そして、中国からも侵略されずに、ピンボケの平和主義者や個々の自由ばかりしか主張しない自由主義者含めて、今まで国民全員が平和の恩恵を享受できたのである。
 公園で遊ぶ家族連れや暖かな一家団欒が過ごせ、子供たちに笑顔があるのも、命がけで国を守る兵士がいるから。
 日々の生活の中で、直接関わりがなくても、警察官が存在しているから治安が守られ安心して暮らせる。
 この二つの、どこが違うのか?
 私たちは、自由で暴力によって自分の意思を曲げられることもない民主主義の国で、今生きられることをもっと大切にし、葛西会長が言うように、きれいごとばかりでなく、私たちの行く末を見つめて、しっかり導いてくれるような人を選んでいきたいと思う。