藤田憲一氏と死生観

 昨日、ブログで、がんと戦い死と向き合っている「末期ガンになったIT社長からの手紙」、著者、㈱NCI代表取締役社長藤田憲一氏について書いた。
 今日は、unizouの死生観を書こうと思う。
 unziouが小学校4年生か5年生くらいのときだったと思う。
 今となっては、なぜそんなことばかり考えていたのか理由はわからないが、死というものをかなり意識していた時期があった。
 別に、格好をつけるわけではないが、校舎のベランダで夕日を眺めながら、「死ぬということはどういうことだろう?」と、ボーっと考えていた。
 これは、unizouだけではないと思うが、時期は別として、誰にでもそういう時期があるような気がしている。
 人に聞いたことはないので、きっとそうだと思う程度のことなのだが・・・。

  • 死んだらどうなるのだろうか?
  • 痛いのかな?
  • 死んだ自分は、死んで横たわっている自分を見たりすることができるのかしら?
  • 死ぬのに、何で生きているのかな?

 そんなことを考えていたような気がする。今でも、それらのどれも解決しているわけではない。
 でも、考えることはなくなった。どちらかというと、死を意識しなくなったというのが正解かもしれない。
 では、「死が訪れない」と思っているかというと、そうではない。
 「死が突然やってくる。」という覚悟はある。
 ここ2年、社員の健康に関わる仕事をしている女性の同僚の隣で、突然に死を迎えた人たちの話を身近に耳にしてきた。 1年前、半年前、いや1日前まで元気に普通に生活してきた人たちが、突然死を迎えたという事実を・・・。
 しばらく前になるが、死と向き合うような大病をしたことがないunizouと年上の部下と、出張先で「死」について語り合ったことがあった。なぜ、そんなことになったのか今では記憶にないが・・・。
 その彼は大病をして、死と向き合うような経験をしたことがあった。だから、unizouが話すことは、きれいごとのように写ったのかもしれない。全然理解してもらえなかった。
 実は、その当時、公方俊良さんの「般若心教 人生を強く生きる101のヒント」を読んでいて、その影響で死についても、病気との闘いについても、そして生きることの意味についても、自分なりの何かを得ていた。
いくつか紹介すると・・・。

「いつか死ぬ自分を生きる・・・命は死ぬ、しかしなくなることはない」
 人は生きようと願っても、誰もがいつか、やがて死んでいかなければなりません。死ぬ命が定めの時は、どう対処していけばいいのでしょうか。(中略)
 人も、肉体は滅びても、人の本性である仏性は常住です。すなわち永遠です。この道理にうなずけば、生も死も、何も恐れることはありません。自らの使命を、この世で精いっぱいに果たし、死んだらまた生き返って頑張ればよいのです。
「病を抱えて生きる・・・闘病は自己変革の教室だ」
 ただし、治る病気の場合は病気が一服の清涼剤になっても、治る見込みのない病気や、療養が長期に及ぶ場合はそうはいきません。考え方を根本的に変えて、病気ととことん付き合う覚悟を決めることです。
 「なぜ、自分だけがこのような目に遭わねばならないのか」と運命を呪い、世間に反抗的な態度を取ったところで、病気は良くなりません。かえって自らの精神まで病んでしまいます。病気に精神まで支配されるのではなく、自らの精神で病気を仕えせしめることが肝要です。考え方を根本的に変えていくには、むしろ、“どんな病気も死んだら治る”くらいに居直って生きることです。そして、病気のときこそ、金銭や財産、地位や快楽などの世俗的価値観を捨て去り、失うことのない本当の価値観である信仰に目覚めるべきです。

 実践できるかどうかは別として、死を覚悟したことで、生きることの意義を見出したことは事実である。
 藤田憲一氏の病が、生も死も超越したものを氏に与え、そして、藤田氏の命が一分一秒でも長くあって、氏の使命を精いっぱい果たしていただきたいと心より願っている。
 unizouは、中小企業診断士なるために、今できることをやって、もしなれたら、お金だけのためでなく、精いっぱい人のために働いてみようと思う。
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