曽野綾子

 本などを読んでいて、著者の言っていることは、本当に真実だと思うことがある。
 それも、あやふやなことがらでなく、「人はこういうものだ」と、直感的に一致するところがある。
 それが、他の人にも共通するものなのかの、それとも、自分だけの人生体験から、そう思うことなのかは、人とそのことについて話したことがないのでわからない。話せば理解してくれるかもしれないが、今の世の中、実際、まじめに考えることは否定されがちであると思うので、ついぞ身構えて話す相手などいなくなる。
 例えば、unizouの会社は、多くの人間が働いている。unizouの知っている人間は多いが(表面上)、逆にunizouのことを知っているかというと、そんなことはない。
 立場上、unizouは支社全体を見渡せる立場にいるので、そういったことになるのだが、その人たちの人生を思うと、それぞれが会社に来て見せている姿と、会社以外の姿は、背負っている重荷が人それぞれ違うので、きっと違うものだといつも思っている。
 会社に来れば、趣味としての仕事であればきっと別なのだろうが、生きるために稼ぐということで、みんな同じような姿で働いている。会社以外でのそれぞれの重荷を顔に出すこともせず。でも、きっと会社以外の重荷を背負っているのだろうと、会社での姿から想像してしまう。100人いれば、100人の。1000人いれば、1000人の人生があるのだと・・・。
 会社に来たのだから、仕事をするのが当たり前で、会社に来れば、みんな同じように会社の奴隷にならなければいけないのだと言う感じにはとてもなれない。
 しかし、多くの人は、そんなことを思いながら人と付き合っているようではないようだ。
 大して考えてもいない多くの上司が、薄っぺらな理解で部下を見ている。
 知識は優秀だが(そうともいえない?)、人間としての思慮深さを欠く人間がいかに多いかと、毎日痛感している。
 産経新聞[1996年11月12日 東京朝刊]に、曽野綾子さんが【自分の顔相手の顔】で書いていたことは、まさにそのこと?だと実感しているので紹介したい。
 家庭崩壊の理由を考えて見ると、それほど複雑ではなく、「父親の存在」というものが理由ではないか。「父親」がそこにいる気配が、あまり感じられないというせいなのではないか。そして、「父親」の存在があまり感じられない理由に、二つの可能性が考えられると。一つはその人がほとんど家にいない場合、もう一つは、いても「意味のあること」をきちんと言わない場合と著者はいう。

最初のケースの方から考えてみよう。
 会社が期待する通りに働いていると、子供の起きている時間にはまず帰って来られないという人は実に多い。はっきり言ってこれは異常なことだし、昔の女工哀史の時代の話のようである。ただしこういう事態が一日もあってはならない、と私は言うつもりはない。人生や生活には波があるから、時には食べるのも眠るのも止めて仕事をしなければならない一種の非常事態ということは必ずあるだろう。作家の仕事など、非常事態でなくても、ほとんど寝ないで書かなければならないことなど、決して珍しくない。
 しかし毎日のように、帰りが夜の十一時、十二時になる会社に運悪く勤めてしまった人はほんとうに気の毒である。そんなふうに人を使っていられると思う経営者は全く人間を理解していないので、そんな会社の将来もそれほど期待できないだろう、と私は考えてしまう。はっきり言うと、私だったら、いかにその会社が一流という評判があっても、そういう非人間的な生活を強いる会社はすぐやめるだろう、と思うのである。
 なぜなら、人間の一生というものは、実に雑多で複雑なものであるからだ。人間は幾つもの顔を持って当然である。雄や雌の顔もある。少年のように夢に浸りたい瞬間もあれば、百円に拘泥する場合もある。そして多くの男は、息子で夫で父で祖父なのである。
 それらのいろいろな姿のために、応分に時間を割いて当然なのだ。それを会社が、その人が目覚めている時間のほとんど総てを一人占めにしようというのは、とんでもない越権だ。そういう会社にはふくよかな人材は決して育たない。ふくよかでない人は、創造的でもなければ、本当の意味でやる気もないし誠実でもないから、その会社はろくでもない社員を持って将来性などないのである。
 そういう意味で未来のない会社と一蓮托生しても、決しておもしろいことにはならない。だから早いこと、転職して決着をつけた方がいい、というのが私の判断である。

 この「人間の一生というものは、実に雑多で複雑なものであるからだ。人間は幾つもの顔を持って当然である。雄や雌の顔もある。少年のように夢に浸りたい瞬間もあれば、百円に拘泥する場合もある。そして多くの男は、息子で夫で父で祖父なのである。」という言葉に、いつも、頷いている。
 そして、人と話すときは、「思いもしない人生を抱えながら、今の表情をしているのではないか」と、一面的な見方をするのを強く戒めている。