地球(ガイア)のささやき

 4/8読売新聞夕刊に掲載されていた龍村仁著「地球(ガイア)のささやき」を読み、感銘を受けた。
 そのまま本文を書き写した。敢えて個人的な感想(コメント)は避け、皆さんにただ読んでもらいたいと思う。

 現代人の中で、鯨や像が自分たちに匹敵する「知性」を持った存在である、と素直に信じられる人はまずいないだろう。それは、我々が、言葉や文字を生み出し、道具や機械をつくり、交通や通信手段を進歩させ、今やこの地球(ガイア)の全生命の未来を左右できるほどに科学技術を進歩させた、この能力を「知性」だと思い込んでいるからだ。
 この点だけからみれば、自らは何も生産せず、自然が与えてくれるものだけを食べて生き、後は何もしないでいるようにみえる(実はそうだないのだが)鯨や象が、自分たちと対等の「知性」を持った存在とはとても思えないのは当然のことである。
 しかし、60年代に入って、さまざまな動機から、鯨や象たちと深い付き合いをするようになった人たちの中から、この「常識」に対する疑問が生まれ始めた。
 鯨や象は、人の「知性」とはまったく別種の「知性」を持っているのではないか?あるいは、人の「知性」は、この地球に存在する大きな知性の、偏った一面の現れであり、もう一方の面に、鯨や象の「知性」が存在するのではないか?という疑問である。
 この疑問は、最初、水族館に捕えられたオルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする調教師や医者、心理学者、その手伝いをした音楽家、鯨の脳に興味をもつ大脳生理学者たちの実体験から生まれた。
 彼らが異口同音に言う言葉がある。それはオルカやイルカ決して、ただ餌がほしいがために本能的に芸をしているのではない、ということである。
 彼らは捕われの身となった自分の状況を、はっきり認識している、という。そして、その状況を自ら受け入れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては、調教師を喜ばせるために、そして自分自身もその状況の下で、精一杯生きることを楽しむために「芸」と呼ばれることを始めるのだ。水族館でオルカが見せてくれる「芸」のほとんどは、実は人間がオルカに強制的に教え込んだものではない。オルカのほうが、人間が求めていることを正確に理解し、自分の持っている超高度な能力を、か弱い人間(調教師)のレベルに合わせて制御し、調整しながら使っているからこそ、可能になる「芸」なのだ。
 たとえば、体長7メートルもある巨大なオルカが、狭いプールでちっぽけな人間を背ビレにつかまらせたまま猛スピードで泳ぎ、プールの端にくると、手綱の合図もなにもないのに自ら細心の注意を払って人間が落ちないようにスピードを落としてそのまま人間をプールサイドに立たせてやる。また、水中から、直立姿勢の人間を自分の鼻先に立たせたまま上昇し、その人間を空中に放り出しながら、その人間が決してプールサイドのコンクリートの上に投げ出されず、再び水中の安全な場所に落下するよう、スピード・高さ・方向などを三次元レベルで調整する。こんなことが果たして、ムチと飴による人間の強制だけでできるだろうか。ましてオルカは水中にいる7メートルの巨体の持ち主なのだ。
 そこには人間の強制ではなく、明らかに、オルカ自身の意思と選択が働いている。
 狭いプールに閉じ込められ、本来持っている超高度な能力の何万分の一も使えない過酷な状況に置かれながらも、自分が「友」として受け入れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分も楽しむオルカの「心」があるからこそできることなのだ。
(中略)
鯨や象が高度な「知性」を持っていることは、たぶん間違いない事実だ。
http://www.kanekokensetsu.com/whisper%20of%20gaia.htm