上司と部下、部下の「人間としての力」

 先日書いた友人のおねの話の続編。
 おねは、この前書いたように何でも聞いてくる上司に悩まされているが、さらに職場環境が悪化したという。
 同僚Nが職場放棄のように休みがちになり、そのしわ寄せがもう一人の同僚とおねにかかってきてしまったのだという。
 そのことで、おねの感情は、まさしく爆発寸前、いや、実際は、爆発しているかもしれない。そして、そのとばっちりが、unizouにも及んできた。
 おねの仕事に対する姿勢や人に対する思いやりを尊敬しているunizouなのだが、今回のような状況では、さすがのおねも感情を抑制できないらしい。
 確かに、今回の件にしては、N本人に問題があるが、職場放棄のように休みがちになったNに対し管理職としての仕事を何もしていない上司はもっと問題なのだと思う。
 前にも書いたが、上司は、駒として与えられた部下を含め、全員で戦場へ出かけていくようなものだ。
 例え一人の足手まといの部下がいても、その一人も、駒の一つである。
 Nを戦場から帰すか、それとも、Nの使い方を考えて、うまくやっていくか。
 上司がきちんと判断しなければ、全員が大事な命を落とす。
 unizouは、上司になるならそう言った判断が出来なければ、なる資格がないと常々自分に重しをつけている。
 また、上司というものは、部下のそれぞれの良さを生かしながら、成果を求めて知恵を使っていくという醍醐味も知っている。
 一体全体、おねの上司は、上司として何を求めて、毎日を送っているのだろう?
 これでは、尊敬の気持ちが起こるはずはない。

 おねの話を聞いていて、unizouが数年前に経験した上司のことを思い出した。その上司の場合は、今のおねの上司とは違った意味で、上司とは何かを考えさせられた。
 その上司は、本社勤務も長く、いろいろなことを知っていて仕事ができた。(いや、きっと、できたのだろう?)
 そして、自分で何でもやる上司だった。部下を信頼していないというのも一因だったのだろうが、それも、完璧?にやっていた。ただし、unizouにはその完璧の基準が、何だったのか、今考えても良くわからないが?
 特に文章には自信を持っていた。会議の資料などは、上司独特の言い回しで作るのが一番だったようなのだが、どうしても、その言い回しを真似して資料を作るのが大嫌いだった。 なんだか、こそばゆくなって、思い立ってという感じで真似して書き始めるが、途中になると気持ちが悪くなって止めてしまう。資料は中途半端な出来栄えで、いつも、お目玉を食らっていた。
 今、そのお目玉は何の役にも立っていないが・・・。
 その上司にとっては、部下の命は、自分の成果を上げるための道具でしかないといった感じだったと思う。自分のための成果であり、自分のための部下であり、最後に部下がどうなろうとも、自分だけ生き残れればいいとしか考えていないように思えていた。
 だから、仕事は出来た?のだろうが、尊敬はできなかった。

 中小企業診断士の勉強をし始めて、P.F.ドラッカーなる人物を知った。そして、先日ブログに書いたが、「リーダーは尊敬されるが、必ずしも好かれるとは限らない」という言葉を知った。

ドラッカーの当時のリーダーは、編集長や投資銀行のシニア・パートナーなどであったが、各人の仕事を懸命にこなし、成果を出すことにのみ専念していた。彼がこれらの人々を尊敬したのは、各3人とも、流儀は異なるが、部下の人間としての力と、「強みを十分に仕事に活かさせ、弱みを介入させない」ことを本能的に悟っていたからだと述べる。(http://www.portem.co.jp/meigen54.htm

 「部下の人間としての力」、「強みを仕事に活かす」、「弱みを介入させない。」ということが出来なければ、おねの上司もunizouの以前の上司も一匹狼として生きればいいのであって、組織は必要ないのだ。

 P.F.ドラッカー氏が、昨日95歳で永遠の眠りについた。安らかなる眠りを願って、合掌。