「ゼネラリスト」と「スペシャリスト」

 今日、一人の職員が死んだ。
 急性の病気だった。
 職員の健康管理を担当している知人がいるので、なんだか慌しくなったようだった。
 彼女が忙しくなった理由は、幹部から「なぜ死んだのか?」、「職場として健康管理に対する落ち度はなかったのか?」ということを聞かれて、過去の健康データなどから因果関係を調べることになるからだ。幹部が死と過去の因果関係を調べさせる理由は、決して、今回のようなことが職員に二度と起こらないように万全の職場環境にするためではない。
幹部職員自身の保身の二文字に尽きる。
 こういったことは、職員の健康管理について言えることではない。
 健康管理を扱っている彼女の仕事を見たり、聞いたりしていると、この職場のバランスの悪さが良くわかる。
 彼女がもし今回のような件を具体例として何かの提言をした場合、職場環境を良くするために何らかのアクションを起こすべきなのは幹部だが、幹部職員は因果関係を聞いただけで仕事は終わる。聞くだけなら誰でもできる・・・・?
 幹部職員のすべてでなくても、本気で取り組む人が少しでもいれば、きっと、この組織は変わるだろう。

 幹部職員や幹部候補生になればなるほど、職務設計でいうところの「ジョブローテーション」が多くなる。
 「ジョブローテーション」のメリットは、「見識が広くなる。」、「ゼネラリストを育てる。」ということだが、スペシャリストまでとは言わないものの「腰掛」であっていいはずがない。「経験すれども生かせず」なのだ。
 「問題解決できない」のは、「問題意識」がないわけではないだろう。
 最近は、きっと「問題の解決」と言う意味が、幹部職員とは違うのだと感じるようになってきた。
 幹部にとっての問題解決は、健康管理を担当している知人がいつも経験しているように前向きの仕事でなく「過去への探索」なのだ。
 過去を探索してしまえば、それで問題解決となる。
 だから、具体的に問題解決して、前へ進むことはない。「一体全体、かけた事務量はどこへ行ったのだ!!!」

 「ゼネラリスト」と「スペシャリスト」については、昔から論争があるそうだ。
 unizouは、「ゼネラリストは、大勢のスペシャリストのそれぞれの持ち味をいかに引き出し、組み合せして極大化する。」仕事だと考えている。ゼネラリストが不要ではなく、ゼネラリストもどきが不要なのである。

 「ゼネラリスト」と「スペシャリスト」が上手くかみ合って、組織は良い仕事ができる。
 ゼネラリストの皆さん、あなた方は必要な存在なのですから、決して問題解決の意味を取り違わないように・・・。