川嶋あいとトルストイ「人はなんで生きるか」 

 産経新聞に歌手の川嶋あいさんの記事が出ていた。
 「知る人ぞ知る。」という方らしいが、unizouは知らなかった。
 歌は耳にしていて、「いい歌だな。」と感じてはいたが、歌っている人まで思いをはせることはなかった。
 彼女は、生まれてすぐに児童養護施設に預けられて生みの親の顔を知らず、3歳から育ててくれた両親は亡くなり、今天涯孤独の身であるということだった。
 この記事を読んでいて、高校時代に英語の授業で副読本として使ったトルストイの「人はなんで生きるか」を思い出した。この作品はその当時から非常に気に入っていて、岩波文庫から出されている日本語訳のものを買って蔵書とし、思い出しては読み返している。

 本のあらすじは、こんな感じである。
 天使が神様の逆鱗に触れて、着るものさえ与えられず寒い地上に落とされてしまった。
 なぜ、神様の逆鱗に触れたかと言うと、神様がふたごの子を生んだばかりの女の魂を取ってくるように言われたのに、女が「ふたごの子の父親は最近死んで、今、自分が死んだら、この子達を育てようがない。ひとり立ちができるまで見させてください。」と言ったので、天使は魂を抜くことができなかったからである。
 神様は、天使にもう一度女の魂を抜いてくるように言われ、その時、天使にこう言う。「そうしたら、三つの言葉が分かるだろ―人間の中にあるものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか、この三つのことが分かるだろ。それが分かったら、天へ戻ってくるがいい。」

 地上で凍えていた天使を、日々の暮らしがやっとの靴屋セミョーンが助ける。
セミョーンは天使を家に連れて帰り、天使はそこで暮らす数年間で、その三つの言葉、三つのことが分かり天に戻っていくと言う話である。

 神様の第一の言葉「人間の中にあるものの何かを知るだろう。」とは、「愛」。
 第二の言葉「人間に与えられていないものは何か。」とは、「この人は、一年先のことまで用意しているが、この夕方までも生きていられないことは知らないのだ。」ということ。
 第三の言葉「人間はなんで生きるか。」

ふたごの女の子が、一人の女の人といっしょに来ました。わたしは、その子供たちがわかりました、その子供たちが死なないで生きていたことを知りました。知ってそうして考えました―≪あの母親が子どものために頼んだ時、わたしは母親の言葉を信じて、両親がなくては子どもは育たぬものと考えた、が、このとおり他人の女が乳をくれて、二人とも大きくなったじゃないか≫そして、その婦人が他人の子どものために感動して泣きだした時に、わたしはその人の中にも生きた神様を見て、ひとはなんで生きるものであるかを知りました。・・・【岩波文庫トルストイ民話集「人はなんで生きるか」他四編中村白葉訳】

 
 不遇な境遇に育つと、人間は不幸になるのが当たり前のように思ってしまう。
 でも、人は捨てた物じゃなくて、「愛」を持っていて、その「愛」で人を支え、支えられている。
 「寿命」は、自分の範疇じゃなくて「神」のみぞ知るところ。
 生きているのではなく、生かされている。
 なんだかすがすがしい気持ちになってくる。
 毎日、精一杯生きる・・・。それだけを、胸にして生きよう。
 ※ 「人はなんで生きるか」のほかに、「愛のあるところに神あり」も非常にいい作品ですので、一読してみてはいかがでしょうか。