人に教えること、教わること

 今日先輩から仕事で指導を受けた。しかし内容に納得できない点があったので、自分の考えを話したら逆ギレされた。
 先輩が言う理論的な説明の部分は理解できた。私も同意見であった。私は、この案件の場合、どのような処理が望ましかったのかを教えて欲しかった。そこで質問した、具体的にどうしたらよかったのかと。しかし、抽象的な説明に終始し、実務的な取扱いについて答えてもらえなかった。
 私は、この案件は事務量をかけず、簡易な処理で足りると考えていた。一方、先輩は、原則通り、慎重な取扱いを求めた。しかし、そもそもこの案件は、慎重に取り扱うべき内容を持ち合わせていない。だからこそ、原則を理解した上で、簡便法を選択したのだ。仮に、慎重な取扱いが必要と言うならば、具体的に何が足りないのかを教えて欲しい、そう伝えた。でも先輩は答えない。
 挙句、先輩の口からでた言葉はこうだった、「私も先輩にそう教わったからそうなの。まぁ、担当はあなたなのだから、あなたが考えればいい。もうひとりの同僚がOKと言ってるならそれでいい、最終的には上司が判断するから、私はもういい。」そして話はそこで打ち切られた。
 日本人は議論が苦手だ。自分の意見に反論されると自分個人を否定されたかのように思ってしまう。感情と切り離すことができないのだ。そう思ったからこそ、私自身は冷静に議論したつもりだった。しかし、先輩は、議論をいっぼう的に打ち切り、別室で作業すると言い残してしばらく席を外してしまった。自席に戻ってからもギクシャクして何とも嫌な気分だった。
 私はどうすればよかったのか?先輩の言うことに、「分かりました。」とだけ言えばよかったのか?しかし、直しを求められたときにボロがでる。私自身は直し不要と考えているのだから。私の話を聞く姿勢に問題はなかったか?
 企業経営論で、経営組織は必然的に「コンフリクト(葛藤)」現象を生み出すと学んだ。そして、コンフリクトは「個人レベル」、「組織内レベル」、「組織間レベル」の3つのレベルで捉えることができるとも。今日はまさに、組織内レベルのコンフリクトであった。自分の案に満足できないという受容不能状態(個人レベルのコンフリクト)ではなかったが、同じ問題について、部門内で統一見解を導けなかった。
 「コンフリクト」の解決方法は、①分析的解決方法(コンフリクトの根源まで遡り、取り去ろうとする方法)と②交渉(①がダメなとき、第三者に介入してもらいその裁定に委ねる方法)とある。しかも、今日にあっては、いずれの解決方法も実施できなかったことになる。
 そして思った。教えるならば堂々と信念をもって、自分が体得していないことやすぐに崩れる根拠なら教えない。教わるならば、素直な気持ちをもって、でも分かってないのに分かったフリをしてはいけない。
 それにしても、何とも後味の悪い出来事だったなぁ…。