新聞

 宅配は、読売新聞を取っているが、14〜5年前に産経新聞を手にして気に入り、キオスクで買うようになった。インターネットでも、宅配より定額で紙面そのままの状態で見て読むことができたので非常に便利だったが、残念なことにコストが見合わなかったのか少し前に廃止になった。
 何がそんなに気に入ったのか・・・?
 それは、普通(自分ことを普通というのもいかがなものかと思うが)の人が、普通に考えそうなことを書いているような気がするからである。例えて言うなら、世間の人と一緒にその輪の中に入って考えているといった感じだろうか。四大紙のうち読売新聞も、同じように感じることが多い。
 他の四大紙はどうか言うとは、一緒の輪の中で考えていると言う気はあまりしない。一部の人たちの代弁者、あるいはもっと高いところで世間を眺めている人といった感じだろうか。何か非人間的な冷めた部分を感じて嫌になる。これは、護憲主義者とか平和主義者にも同じように感じるところではあるが。
 でも、最近、その気に入っている産経新聞も含めて嫌だなと思うことがある。それは、小泉首相衆議院を解散した後の論評である。
 どの新聞も、「政治課題は、郵政民営化だけではない。」、「今回の選挙で、白紙委任したわけではない。」と言う。
 小泉さんの郵政民営化特殊法人道路公団)などは、最初は非常にすっきりするほど過激な内容だった。そのとおり行くのが一番だと思うが、やはり、どこかで妥協しなければいけない。もし、そのとおり通したら、それこそ「独裁者」である。
 また、小泉首相も「郵政民営化だけ」と思っているはずは無い。
 新聞には、政策の長所や短所(サービスを得る、安全を得るためには、コストがかかる。)を分かりやすく説明していき、国民の選択の指針を示してほしいと思っている。
 選択する権利も責任も、最後はあくまでも国民一人ひとりが負わなければいけないことなのだから。

 産経新聞を読むようになって好きになった作家が、「曽野綾子」さんだ。
 自分も含めて人を許せるような気がして、毎日元気に生きていける気にさせてくれるからだ。
 例えば、こんな文章がある。


 聖書を読んでいれば、「××なら間違いない」という言い方をしなくなる。そして私は幸運にも、少し聖書を読んでいたのである。
 「ヨハネ福音書8・7」には、「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい。」という言葉が出てくる。姦淫した女は当時、石打ちの刑に処せられるはずだったが、イエスズはそれに対してこう答えられたのである。すると彼女を引き立ててきた律法学者やパリサイ派の人たちは一人また一人と出て行き、最後に女とイエスズだけが、人の気配もない早朝の神殿に取り残された。
(中略)
 しかし初めから正しい者も、完全に善を行う行なう者も、一人もいはしないのだ、と言われる時に、むしろ私は心置きなく、自分の弱さや、他人の弱点を見つめることができるようになる。そして自分は許されないであろう、とか、あの人は許し難い人間だとか思わなくて済むようになる。なぜなら、悪い点のない人間はいない、と聖書は、そもそも初めから明確に断言し続けているからである。
(中略)
 「もし、あなた方のうちに自分をこの世で知恵のあるものと思う人がいるなら、本当に知恵のあるものとなるために愚かなものとなりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」(一コリント3・18〜19)

 「心に迫るパウロの言葉(新潮文庫刊)P28〜31」

 これで、明日もがんばれる気がする。