仏像にハマるvol.1

 私は仏像にハマっている!もう10年近くになるかな。今日も帰りがけに「おとなの修学旅行」と題した京都・奈良の寺社仏閣を巡る旅のパンフを見かけたが、古寺や古仏巡礼に出かける人が最近とみに多くなったと感じる。
 古刹巡りのポイントは、「仏像」、「建築」、「庭園」の3つと言われ、古いお寺、特に巡るに値する良い寺というのは、この3つのうち必ずどれかを持っている。もちろん、私の古刹巡りの目的は、「仏像」である。
 お香のいい香と水を打ったような静寂につつまれたお堂の中に、何百年のときを越えて安置されつづけている仏像と対峙した瞬間がなんとも言えず好きなのだ。
 仏像自体の美術的価値のすばらしさに加え、この仏像は今に至るまで幾千人の人々を見つめ、救い、癒してきたのか。そして幾千人の人々がこの仏像を愛し、守り続けてきたのか、そういった一体の仏像が無言で伝えるその歴史の重みに感動を覚えると共に私自身も諭され、律せられる気持ちがする。
 しかし、ハマった理由は、それだけではない。
 たいてい仏像の前には、その仏像の名前と由来が書かれたプレートが置かれている。そしてある時ふと思った。「仏教に明るくなくても、このプレートを見ずして、仏像の尊名が分かるようになるものか?」と。そしたら、無償に、この仏像が釈迦如来阿弥陀如来か、また観音菩薩普賢菩薩かを見分けるにはどうしたらよいか知りたくなってしまったのだ。
 今や、仏像の前に立つと「私は、何如来でしょう?」と挑まれてる気がしてならない。仏像に癒されていた私は一体どこへ行ってしまったのだろう…。一目見てすぐ分かる仏像(愛情をこめて敢えて「ブツ」と呼ばせてもらう)もいれば、かなり難問のブツもいる。
 というわけでこれから何回かに分けて、我流ブツの鑑賞法を書いてみようと思う。
 今日は入門編ということで、「仏像の種類」について。
 仏像とは、本来は“仏陀の像”のこと。仏陀とは、真理を悟った者という意味で、略して仏とも如来とも言う。つまり狭い意味では出家して悟りを開いた実在の人物“釈迦牟尼”をモデルにした釈迦如来をはじめ、阿弥陀如来薬師如来などのいわゆる如来像のみが仏像ということになる。
 しかし、一般的には、観音菩薩地蔵菩薩などの菩薩像、不動明王愛染明王などの明王像、そして帝釈天や四天王のような天部までを含めた仏像尊像全体を仏像と呼んでいる。  
 よって、仏像は、基本的に4つのパートに分けられると思ってOK、「如来(にょらい)」「菩薩(ぼさつ)」「明王(みょうおう)」そして「天(てん)」だ。そしてこの4つは、コツをつかめば、パッと見で区別できちゃうのだ。簡単に言うなら。薄着でほぼ裸なら如来、ゴージャス衣装なら菩薩というように。この辺はこれから追々紹介していこう。
 今日の最後に、私が今までに対峙した仏像の中で一番印象深かった仏像を紹介しよう。それは東大寺戒壇院の四天王像のひとつ、広目天像である。未来をじっと見据えているかのようなその鋭い眼光は、1300年近くを経て今もなお、人々の心へ訴えかけ続けている。

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