釣った魚を与えるよりも、魚の取り方を教える。

 最近は、めっきり高級料亭、クラブなどに行かなくなった。若かった頃は、収入が少ないわりに、高いお金?を払って結構行っていた。なんだか懐かしい反面、よく生活が破綻しなかったと空恐ろしい気持ちになる。
 今では、unizouひとりが行かなくなったせいでもないが、そういった店の多くは店じまいして、その場所を通り過ぎても夢の跡形も無い状況になっている。
 なぜ、急にそんなことを思い出したのかというと、「企業を育てるものが何か」、「日本人の性質と企業」みたいなことを以前考え、自分なりに結論を出していたのだが、今、選挙で問われている「郵政民営化」で、ついそのことを思い出してしまったからである。
 郵政民営化は、どちらかというと「財政再建」「行政改革」という視点で語られているが、unizouの視点で論じるとすると、本当に守られたいと考えているのは、今までリスクを負わず(考えず)に利用できていた郵貯簡保を、そのまま使いつづけたいと思っている国民なんだと思う。その国民が、郵便局を必要善にしてしまっているのではないだろうか。
客の本質が、結局その企業を駄目にしていく・・・?
 本来であれば、お金を増やす(利息が付くなど)ことは、絶対リスクがあることなのに、リスクが無いことをいいことに国民の多くが郵便局を利用する。以前郵便局を利用する人は少ないと思っていたが、仕事で、社宅の共益費を口座振替に切り替えたところ、社宅を利用している社員の半分くらいが郵便局での口座振替を希望していたので驚いた。金融機関に預けたお金は、預けたままでは絶対増えないから、金融機関が誰かに貸す。誰かに貸せば、貸し倒れる場合もあるので、金融機関はそのリスクも考えて事業をしていく。だから、預ける人にしてみれば、郵便局と比べれば当然「低い評価」になる。
 リスクを考えて事業をする・・・。
 これは、一般企業ならば当然のことなのに郵便局にはありえない話である。だから、今言われている「サービス」の充実という意味ではなく、企業経営という点において企業努力をしない。つまり、お金を生きたお金として貸し、預けた人にも生きたお金として返すということになっていないという意味であり、企業としての存在価値を有していないと思う。
 だから、預けた人も、郵便局も、そして借りた人も、すべてがいい加減になり、いつまでたっても自立できないままになっていく・・・。
 割烹料理、クラブが凋落した理由も、同じようなことだと思う。
 根底にあるものは、郵政民営化でも同じようなことが言えるが、日本国民の性質によるものかもしれない。
 それは、高級料亭であれば、自腹を切りたがらない客のことであり、郵便局であれば、リスクを負いたがらない利用者といった、「依存性の強い国民性」によるものだと思う。
 割烹料理、クラブなどの産業は、unizouが足しげく通っていた時期は民間の接待費官官接待など、自腹を切らない人たちに支えられていた。店は、都心でも地方でも、ホステスや芸者のきれいな人がいれば、特に努力をしないでも、客は毎晩やってきた。利用する人たちも自腹じゃないから遠慮なく使った。値段と味のバランスを考えることもなく、リピーターになる必要もなかった。
 そして、店は、味やたたずまいに見合うサービスの値段が見えなくなってしまっていた。
 当然の帰結として、接待費の縮小、官官接待がなくなれば、「そして、誰もいなくなった。」の世界になった。
 だから、今生き残っているところは、本当に自腹を切ってでも行きたいと思わせる店であり、自分の欲求を実現するためなら自腹を切っても良いと考えている人たちに支えられているのだろう。
 本来企業は、そういういう苦い(辛い?)人に支えられていないといけない。(前にも書いたが、理不尽に客に迎合するという意味ではない。)
 誤解を招くといけないので付け加えておくと、消費者のニーズに合わせた内容でそれぞれの企業が企業努力すればいいのであって、すべての企業が高級志向にすればいいという意味ではない。
 今は、客が自腹で食べ、飲み、楽しむ時代になった。本当にいいことだと思う。出したお金で得られるものに満足して帰っていき、想い出になっていく。商売って、ほんとにすばらしい。
 さて、いよいよ明日投票日、郵政民営化の行方は・・・。
 unizouの基準は、「釣った魚を与えるよりも、魚の取り方を教えてやる。」ということわざにあるとおり、国民を赤子のように守り続けることよりも、国民を自立させることが国民に本当の幸せがやってくる?ってところかな。