男女雇用機会均等法

 今日は、入社して間もない頃の仲間との飲み会だった。
 メンバーそれぞれとは、何かの機会に個別に飲むことはあったが、転勤してからというものこんな風にみんなで集まって飲むのは、ほんとに久しぶりだった。
 今日の主役は、少し前に会社を退職した女性職員。入社して3年目ほどだったと思うが、他支店から転勤してきて机を並べることになった先輩職員である。
 彼女は、定年まであと何年かを残して退職した。
 わが職場の女性職員特有の「責任を伴う仕事はあまりやりたがらない(経験が無いせいかも知れないし、責任を負ってくれるような上司がいなかったせいかもしれない?)が、与えられた仕事は、一生懸命やるタイプ」の人である。
 彼女がやめた理由は、上司との関係である。
 彼女は、「うつ病になると思ったほど、いじめられた。ほんとに刺し殺したいと思っていた。今でも、苦しんでほしいと思うことがある。」と言う。もちろん、やめて楽になったようだが、未だにそのトラウマに苦しんでいるような感じである。
 ここ何年か、我が職場では「女性登用」という大義名分で、今まで経験したこともないような責任あるポストにいきなり女性職員を登用するということが行われている。そのポストへの登用の理由は、その人の「能力」や「適性」より、「女性」であることによることが大きい。もちろん、男性職員も同じで、「女性」が「長時間労働可能」「付き合い上手」「僻地勤務経験」「単身赴任可能」に変わるだけかもしれないが・・・。
 彼女に「能力」や「適性」が無いとは言わないが、経験も無ければ、そういった責任あるポストを任されるつもりで職場を見てこなかった人に、いきなり「ポスト」をどうぞという話である。
 また、彼女にとって運が悪かったのは、上に立つ上司が「仕事」はできるかもしれないが、「人の能力を引き出すことができない」人で、暴力は振るわないものの言葉によるDV(ドメスティックバイオレンス)で自分のフラストレーションを解消するような人間だったことである。
 「男女雇用機会均等法」の趣旨は、何が何でも女性を登用しろということではあるまい。男性であれ、女性であれ、それぞれの「適性」、「能力」を十分に発揮できるようにすることで、より理想に近い仕事ができるようになることだと思う。
 彼女が、元気になって自分を取り戻し、生きがいのある人生を取り戻すために、今愛読している曽野綾子さんの「心に迫るパウロの言葉(民主主義の解説者)」を紹介したい。
 「教える才能を頂いている人は、教理を教える。慰め、力づけることを得意とする人は、弱っている人を元気づけに行く。お金によって施しのできる人は充分にお金を出し、リーダとなる人は骨惜しみせずに尽くし、人を助けることのできる人は気持ちよく助けることなのである。
 この時、教える人たちが知的だとか、施しのできる人が金持ちだから偉いとか、リーダーシップを持つ人が優秀なのだとかいうことは、人間の側の判断なのである。神はそれらの仕事のどれもが、同じように大切であることを知っておられた。だから、才能に違いのあることは、神が個人個人に贈った贈り物をされたということに過ぎず、それにおかしな優劣をつけたのは、その神の意図の分からない人間の判断だったのである。(中略)
 つまり、神から見ると、すべての仕事は全く同じなのである。総理大臣の職務なら偉くて、地方の小さな町の公務員はそれに比べたら大したことはない、ということもない。肉体労働を一切しない管理職が上で、頭を使わない工場労働はそれより下級だということもない。本当のことしか言わない学者は偉くて、嘘を書くことを仕事とする小説書きはダメという判断もない。
 「もし、あなたがたのうちに自分をこの世で知恵のある者と思う人がいるなら、本当に知恵のある者となるために、愚かな者となりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」(一コリント3・18〜19)