光市母子殺害事件で考える「士業」とは・・・

 1999年4月14日に山口県光市で、女性(当時23歳)とその娘(生後11カ月)が、当時18歳の少年に殺害された事件、いわゆる光市母子殺害事件の差し戻し審が、広島高裁で先週行われた。
 事件当初から、凄惨かつ残虐な事件であると報道されていたことや、加害者が少年法51条1項の規定により死刑とならない18歳を過ぎて間もない時期の犯行だったため、少年法のあり方も含め、世の中の注目を集め、unizouも同様に関心を持っている事件だ。
 今回の差し戻し審では、弁護側の被告人質問が行われ、およそ1・2審で被告人が主張してきたこととは違う主張がなされた。
 被告人の今回の主張と1・2審での主張のどちらが真実かについては、本当はunizouを始め世間の人は知らない。
 およそ、真実を知っているとしたら、被告人本人と亡くなった女性だけであろう。
 私たちは、こういう場合、世間の誰もが正義感で被告人を裁こうとしがちである。
 ところが、正義感というものは、本当は、それぞれの人によって基準が違う。
 そして、どちらかというと情緒的な結果に流れがちである。
 だから、何よりも、世間は冷静でなければいけないと思う。
 ただ、今回の21人の大弁護団には、「士業」の道に進みたいと考えているものとして、苦言を呈したい。
 というのは、「士業」に携わるものであれば、クライアントの短期的な利益(利益ということばは相応しくないかもしれない)に目を向けてはいけないということを知ってほしいと思っている。
 これは、弁護士であれ、中小企業診断士であれ、そのほかの「士業」の公認会計士や税理士なども同様である。
 弁護士について言えば、短期的に見て「罪になるかならないか」ということでなく、人間の尊厳まで行き着くような普遍的なことまで目を向けてほしいと思っている。
 被害者の夫である本村洋さんは、亡くなった奥様の「尊厳を踏み躙られた」と差し戻し控訴審の第2回目が終わったときに開かれた記者会見で言っていた。
 しかし、弁護団が失わせているのは、被害者の尊厳だけでは決してないように思う。
 自ら弁護している加害者の尊厳まで失わせていないのか?
 加害者の魂を、真の安らぎから遠ざけていないのか?
 つまり、真実を語らせて、本当の意味で罪を償う道に向かわせていくことが、加害者の魂を救う唯一の道なのである。
 今、加害者は、「刑が少しでも軽くなるのであれば、弁護団の言うことを聞いて、どんなことでもする」という気持だけだろう。
 そして、もし、その結果として、刑が軽くなり、その後、世間に出たときに何を感じるだろう。
 手に入れた刑の軽さの代わりに、罪の意識はますます重くのしかかるはずである。
 きっと、普通の人間なら、そう感じるはずである。
 unizouは、加害者に死刑になってほしいと願っている訳ではない。真実に基づいて裁きを受けてほしいと思っているだけである。
 裁判が終わり、罪と罰のバランスが崩れていると本人が感じるとしたら、きっと、そのアンバランスに苦しむのは加害者自身であると思う。だから、加害者は真実を率直に語ることである。
 そして、弁護団も、加害者が勇気を持って真実を語り、刑に服し、魂の安らぎを覚えるようにすべきなのだ。
 そして、今回の件で、「真実にこそ」目を向けて仕事をするべきなのは、弁護士に限ってのことでなく、「士業」の道を歩む者すべてが行うべきことなのだと考えている。

 加害者が普通の人間なら、「手に入れた刑の軽さの代わりに、罪の意識はますます重くのしかかるはずである。」と書いたが、世の中には鬼平犯科帳に出てくる「畜生」のような人(罪を感じない人)もいるようだ。
 鬼平犯科帳では、そんな極悪非道な悪人に対し、長谷川平蔵が刀を振りかざして手足を切断するシーンがあったように記憶している。そこまでしないと、人間の心を取り戻さないということなのか、人間のかたちをした畜生なので畜生に戻したのか、その辺の作者の意図はよくわからないが・・・。